ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
法勝寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
法勝寺
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
'''法勝寺'''(ほっしょうじ)は、[[平安京]]郊外の[[白河殿]]に付属した[[白河天皇]]の[[御願寺]]。[[天台宗]]。[[六勝寺]]の筆頭。本尊は[[毘盧遮那仏]]。巨大な八角九重塔があったことで知られる。[[黒谷流]]円頓戒を復興させた[[円観]]の拠点で、[[戒壇]]があった。 == 歴史 == 白河天皇の発願で、承保2年(1075)金堂造営に着手。翌年、阿弥陀堂起工。承暦元年 (1077) 12月、金堂、講堂、阿弥陀堂、法華堂、五大堂が竣工。天皇行幸で伽藍供養。永保3年(1083)に八角九重塔が竣工。常行堂、小塔院、不動堂などの伽藍が続々と完成したが九重塔などは再建を繰り返した。嘉暦元年(1326)と元弘3年(1333)、円観慧鎮が住して円頓戒復興の拠点とした。円観は、[[西教寺]]や[[鎮興寺]]、[[宝戒寺]]、[[等妙寺]]、[[加賀・薬師寺]]、[[帝釈寺]]、[[神蔵寺]]を末寺とした。南北朝時代、興国3年(康永元年、1342)の大火災で主要伽藍を焼失。以降、整備されず、衰退した。その名称は、天正18年(1590)に大津[[西教寺]]に継承されたともいう。あるいは[[滋賀院]]に名前を移したともいう。昭和47年の発掘で池跡が、昭和50年の発掘で金堂跡が見つかった。 (国史大事典) 近くに[[元応寺]]があった。 ==伽藍== *金堂:本尊は毘盧遮那仏 *講堂:本尊は釈迦如来。 *阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。 *法華堂:七宝多宝塔を祀る *五大堂:本尊は五大明王。 *八角九重塔:永保3年竣工。承元2年(1208)、落雷で焼失。健保元年(1213)、栄西が再建。文永5年(1268)落雷。暦応5年(1342)他の伽藍と共に焼失。 *常行堂: *小塔院: *不動堂: *薬師堂 *北斗堂 *愛染堂 *大湯屋 *宝蔵 *総社 ==組織== ===別当=== *覚円(1031-1098):園城寺長吏。1077年(承暦1年)、天台座主の命を受けるが、比叡山衆徒の反対で3日で辞職。同年12月、法勝寺別当。 *覚猷(1053-1140):園城寺長吏。天台座主。四天王寺別当、証金剛院別当、梵釈寺別当などを歴任。 *行尊(1055-1135):園城寺長吏。崇福寺別当、四天王寺別当、最勝寺別当、証菩提院別当、法成寺検校などを歴任。 *寛助(1057-1125):真言宗僧。仁和寺別当、円教寺別当。円宗寺別当。東寺一長者。法務。広隆寺別当。1117年(永久5年)1月法勝寺別当。東大寺別当。 *定遍(1133-1185):東寺長者。東大寺別当。1185年(文治1年)法勝寺別当。定遍方の祖。 *公胤(1145-1216):園城寺長吏。1205年(元久2年)法勝寺別当。 ===住職=== *円観慧鎮 *惟賢 ===執行=== *[[俊寛]](?-1179)<>: *尊長()<>:一条能保の子。 *静憲()<>:信西(藤原通憲)の子。 *能円()<>:藤原顕憲の子。平時子の異父弟。承明門院の父で、土御門天皇の外祖父。 ===大勧進=== *[[栄西]] *円観慧鎮 ==参考文献== *法勝寺の伽藍形態とその特徴 *国史大事典 [[category:京都府]]
法勝寺
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ