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法性寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
法性寺
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'''法性寺'''(ほっしょうじ)は、[[平安京]]郊外の山城国東山にあった[[藤原氏]]菩提寺の[[天台宗]]寺院。廃絶。現在の[[東福寺]]周辺の一帯を占め、南限は[[伏見稲荷大社]]北辺まで至った巨大な寺院であった。藤原忠平が創建した。開山は天台座主の[[法性坊]]尊意。(参考:同名寺院[[法性寺_(同名)]]) ==歴史== 藤原忠平が右大臣から左大臣に昇進した924年(延長2年)頃に創建。『貞信公記』の同年2月10日に忠平が法性寺に参詣し、初めて鐘の音を聴いたとあるのが初見。5月7日修繕法要。翌年3月8日五大尊を造立。種々の法会が営まれた。 948年(天暦2年)、朱雀上皇が行幸し、御堂を建て[[御願寺]]とした。 949年(天暦3年)8月、藤原忠平死去。法性寺の東北に葬られたという。忠平の死後は彼の追善の場となり、ますます隆盛の機を得た。子の師輔も近くに住み、経営に注力した。摂関家の興隆とともに一族の追善法会が行われ、摂関家の氏寺と化した。934年(承平4年)、[[定額寺]]となった。寺運興隆とともに仏教界でも法性寺座主の地位が重視された。座主職は尊意以来、[[円仁]]系の僧が就任したが、981年(天元4年)に[[円珍]]系の余慶が就任すると、大騒動となった。 1004年(寛弘1年)、[[藤原道長]]は木幡[[浄妙寺]]の造営に並行して、法性寺の修復を始めた。1005年(寛弘2年)、五大堂の新造に取り掛かり、12月に仏像造立に着手。翌年7月27日、五大堂上棟し、8月7日、仏像が安置された。12月26日に落慶法要が行われた。このとき右大臣、内大臣、前内大臣が参列した。1013年(長和2年)に道長が病に掛かった時には、室、息子あげて祈祷している。道長はたびたび法性寺に参籠し、そのため国政に支障が生じることもあった。貴族の多くが朝廷に出仕せず、法性寺に集まったともいう。現在、[[東福寺同聚院]]の不動堂にある不動明王像が道長の五大堂のものとされる。 道長の子の藤原忠通も寺の近くに邸宅法性寺邸を建て、法性寺の経営を重視した。そのため法性寺関白とあだなされる。1146年(久安2年)12月には五十賀の仏事を行っている。1148年(久安4年)6月には室の宗子が[[最勝金剛院]]を建立。落慶には[[崇徳上皇]]、[[鳥羽法皇]]が行幸した。1164年(長寛2年)忠通死去。法性寺山に埋葬し、一周忌も実施した。1152年(仁平2年)7月にも新御堂が建てられている。また当時、鳥羽法皇の法性寺離宮(跡地は不明)があったという。 [[九条兼実]]も出入りし、1188年(文治4年)に嗣子良通が亡くなると法性寺に大卒塔婆を立てている。翌年、最勝金剛院で法事を行った。平宗盛も一堂を建てたという。兼実は法性寺に葬られ、後法性寺関白と呼ばれた。 1242年(仁治3年)、九条道家は灌頂堂を建立するが、道家によって[[東福寺]]が創建されると寺地が侵食されていく。鎮守だった[[五社成就宮]]は東福寺の鎮守となった。1333年(元弘3年)5月、倒幕軍と六波羅探題軍の戦闘で一帯は炎上し、法性寺も焼けた。室町時代以降は顧みられなくなり、江戸時代には廃絶した。 [[万寿寺]]に伝わる丈六阿弥陀如来像は、法性寺浄光明院の像とも西御堂(浄光明院と同一説もある)の像ともだったという。[[三聖寺]]を経て万寿寺に伝わったという。また[[法隆寺]]内の講堂は法性寺内[[普門寺]]のものを遷したものという ==伽藍== *五大堂 *[[最勝金剛院]] *[[浄光明院]] *[[尊勝院]] *[[普門寺]] *藤原忠平墓 *藤原忠通墓 *九条兼実墓 *法性寺邸 *法性寺離宮 ==参考文献== *村山修一、1966(昭和41)『平安京』至文堂 [[category:京都府]]
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