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法金剛院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年2月7日 (火)

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'''法金剛院'''(ほうこんごういん)は、京都府京都市右京区花園にある[[南都仏教]]の寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。待賢門院璋子が[[双丘寺]]跡に創建。当初は[[仁和寺]]の子院だった。[[唐招提寺]]の[[導御]]が復興した。江戸時代、[[泉涌寺]]の照珍が再建した。裏山に導御らの唐招提寺・[[泉涌寺]]長老の墓地と待賢門院・上西門院の[[陵墓]]、[[仁和寺宮墓地]]がある。[[律宗唐招提寺派]][[南都仏教の本山寺院|別格本山]]。山号は五位山。
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'''法金剛院'''(ほうこんごういん)は、京都府京都市右京区花園にある[[南都仏教]]の寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。待賢門院璋子が[[双丘寺]]跡に創建。当初は[[仁和寺]]の子院だった。[[唐招提寺]]の[[導御]]が復興した。江戸時代、[[泉涌寺]]の照珍が再建した。裏山に導御らの唐招提寺・[[泉涌寺]]長老の墓地と[[待賢門院陵]]・[[上西門院陵]]、[[仁和寺宮墓地]]がある。[[律宗唐招提寺派]][[南都仏教の本山寺院|別格本山]]。山号は五位山。
[[仁和寺関連旧跡]]、[[唐招提寺関連旧跡]]、[[泉涌寺関連旧跡]]。
[[仁和寺関連旧跡]]、[[唐招提寺関連旧跡]]、[[泉涌寺関連旧跡]]。
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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[[file:Kokudo0039.jpg|thumb|300px|南端の緑地が法金剛院。現在の双ケ丘・妙心寺・龍安寺一帯が仁和寺の領地だった。(国土地理院空中写真より)]]
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===待賢門院による造営===
===待賢門院による造営===
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大治4年(1129)9月、[[鳥羽上皇]]中宮の待賢門院が仁和寺に新たな御堂を建てようと占ったところ天安寺(双丘寺)跡がふさわしいとし、翌年10月に竣工した。落慶には鳥羽上皇と待賢門院が御幸。仁和寺覚法法親王が導師を務めた、中央に池を掘り、西側に御堂を建て東に御殿を建て北に滝を築いた。造営の過程は『長秋記』『中右記』に記されている。
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*1129年(大治4年)9月:[[鳥羽上皇]]中宮の待賢門院が仁和寺に新たな御堂を建てようと占ったところ天安寺([[双丘寺]])跡が適地とされた。
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保延元年(1135)北斗堂、翌年三重塔と経蔵、同5年に南御堂(九体阿弥陀堂)、三昧堂を建立
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*1130年(大治5年)10月:竣工。落慶には鳥羽上皇と待賢門院が御幸。仁和寺宮覚法法親王が導師を務めた。中央に池を掘り、西側に御堂を建て東に御殿を建て北に滝を築いた。造営の過程は『長秋記』『中右記』に記されている。
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待賢門院の死後はその娘の上西門院の御殿となったが、養和元年(1181)焼失し以後衰退した。
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*1135年(保延1年):北斗堂を建立。
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*1136年(保延2年):三重塔と経蔵を建立。
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*1139年(保延5年):南御堂(九体阿弥陀堂)、三昧堂を建立。
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*1145年(久安1年)8月22日:待賢門院死去。その後は娘の上西門院の御殿となった。
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*1181年(養和1年):焼失。以後衰退した。
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*1189年(文治5年)7月20日:上西門院死去。
===導御による復興===
===導御による復興===
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鎌倉時代、弘安5年(1282)唐招提寺の導御が入り、[[融通念仏]]を行い復興。
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*1282年(弘安5年):[[唐招提寺]]24世の[[導御]](1223-1311)が入り、[[融通念仏]]を行い復興。
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応仁の乱で焼失し、天正慶長大地震で被災。
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*応仁の乱で焼失
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泉涌寺の照珍が再建に着手し、
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*天正慶長大地震で被災。
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元和5年(1619)現在の本堂が建立された。
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*1619年(元和5年):泉涌寺75世・唐招提寺59世の賓囿照珍(1555-1628)が再建に着手し、現在の本堂が建立された。
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朱印地65石。塔頭に[[法妙寺]](導御の墓所)、地蔵院、[[亭子院]]があった。
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*1970年(昭和45年):道路拡張のため伽藍の位置を北側に移築。仏殿を新たに建てた。
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昭和45年、道路拡張のため伽藍の位置を北側に移築。仏殿を新たに建てた。
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(国史大辞典、日本歴史地名大系)
(国史大辞典、日本歴史地名大系)
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朱印地65石。
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==子院==
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*[[法妙寺]]:導御の墓所
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2023年2月7日 (火) 時点における最新版

本堂

法金剛院(ほうこんごういん)は、京都府京都市右京区花園にある南都仏教の寺院。本尊は阿弥陀如来。待賢門院璋子が双丘寺跡に創建。当初は仁和寺の子院だった。唐招提寺導御が復興した。江戸時代、泉涌寺の照珍が再建した。裏山に導御らの唐招提寺・泉涌寺長老の墓地と待賢門院陵上西門院陵仁和寺宮墓地がある。律宗唐招提寺派別格本山。山号は五位山。 仁和寺関連旧跡唐招提寺関連旧跡泉涌寺関連旧跡

目次

歴史

法金剛院(国土地理院空中写真より)

待賢門院による造営

  • 1129年(大治4年)9月:鳥羽上皇中宮の待賢門院が仁和寺に新たな御堂を建てようと占ったところ天安寺(双丘寺)跡が適地とされた。
  • 1130年(大治5年)10月:竣工。落慶には鳥羽上皇と待賢門院が御幸。仁和寺宮覚法法親王が導師を務めた。中央に池を掘り、西側に御堂を建て東に御殿を建て北に滝を築いた。造営の過程は『長秋記』『中右記』に記されている。
  • 1135年(保延1年):北斗堂を建立。
  • 1136年(保延2年):三重塔と経蔵を建立。
  • 1139年(保延5年):南御堂(九体阿弥陀堂)、三昧堂を建立。
  • 1145年(久安1年)8月22日:待賢門院死去。その後は娘の上西門院の御殿となった。
  • 1181年(養和1年):焼失。以後衰退した。
  • 1189年(文治5年)7月20日:上西門院死去。

導御による復興

  • 1282年(弘安5年):唐招提寺24世の導御(1223-1311)が入り、融通念仏を行い復興。
  • 応仁の乱で焼失
  • 天正慶長大地震で被災。
  • 1619年(元和5年):泉涌寺75世・唐招提寺59世の賓囿照珍(1555-1628)が再建に着手し、現在の本堂が建立された。
  • 1970年(昭和45年):道路拡張のため伽藍の位置を北側に移築。仏殿を新たに建てた。

(国史大辞典、日本歴史地名大系)

朱印地65石。

子院


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