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浄土宗の流派
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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{|class="wikitable" style="width:100%" |+浄土宗の流派 |- !名称!!派祖!!中心寺院!!コメント |- |鎮西派||聖光房弁長、然阿良忠||筑後善導寺||弁長(1162(応保2)-1238(暦仁1))および良忠(1199(正治1)-1287(弘安10))を派祖とする流派。白旗派・名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派がある。歴史的に観て、浄土宗内でもっとも隆盛した流派である。 |- |西山派||善恵房証空||三鈷寺||証空(1177(治承1)-1247(宝治1))を派祖とする流派。本山流・西谷流・深草流・東山流・嵯峨流・六角流がある。 |- |長楽寺派||隆寛||京都長楽寺||隆寛(1148(久安4)-1227(安貞1))を派祖とする流派。その教えから「多念義」とも呼ばれる。隆寛の弟子に敬日、智慶、信阿、聖実、理観がいた。智慶の五代後の種源の没後、振るわなくなった。 |- |九品寺派||覚明房長西||洛北九品寺||長西(1184(元暦1)-1266(文永3))を派祖とする流派。「諸行本願義」、「九品寺義」、「九品寺流」、「九品義」ともいう。念仏が最上の行だとする従来の考えに対して、念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願に叶うものだとする。早くに断絶したという。のちの他宗の僧侶にも影響を与えた。 |- |白河門徒||法蓮房信空||金戒光明寺||信空(1146(久安2)-1228(安貞2))は法然流罪後に教団の経営を行い、基盤を築くのに尽力したが、信空自身の後継者を残すことはしなかったらしい。信空一代かぎりの勢力だったらしい。 |- |紫野門徒||勢観房源智||知恩院・知恩寺||"源智(1183(寿永2)-1239(延応1))を派祖とする流派。文永年間(1264-1275)に蓮寂房信慧が良忠とそれぞれの教義を照合したところ、相違がなかったので、鎮西流に合流したという。 |- |嵯峨門徒||正信房湛空||二尊院||湛空(1176(安元2)-1253(建長5))一代かぎりの勢力だったらしい。 |- |大谷門徒||親鸞||-----||親鸞(1173(承安3)-1263(弘長3))を派祖とする流派。「浄土真宗」として独自の発展を遂げた。 |- |一念義派||成覚房幸西||-----||"一念義は、一念の教義を信奉する流派である。「一念往生義」「一念業成義」「一念宗」「一念衆」などとも呼ばれた。幸西(1163(長寛1)-1247(宝治1))を派祖とすることが多い。幸西のほか、行空も一念義をとなえた。往生は本願を信じる一念によって成立するとし、念仏はただ感謝を表す行為に過ぎないとした。在家主義の色が強く、この点が反発を受けたという。<br>幸西は異端として法然から破門された。幸西は建永の法難で阿波に流され、嘉禄の法難で壱岐に流された。行空は元久の法難で処罰され、さらに建永の法難で、佐渡に流された。<br>当初は非常に盛んだったらしく、幸西の法系は京と安房とでしばらく存続した。他の教義に対して非妥協的であったことと、京都貴族を信徒にできなかったこと、在家信徒が浄土真宗に吸収されたであろうことから、早くに衰退した。<br>○参考文献:昭和49『浄土宗大辞典』" |}
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