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浄土宗の流派

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年11月2日 (水)

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中世の流派

中世の浄土宗には、9流派があったとされている。このうち現在まで存続しているのは、現在の浄土宗知恩院派鎮西派白旗流と、西山派西谷流西山浄土宗浄土宗西山禅林寺派)と深草流浄土宗西山深草派)である。また浄土真宗となった大谷門徒と、時宗となった一遍の法流、昭和に時宗から浄土宗知恩院派に帰参した一向の門流がある。

浄土宗の流派と拠点寺院
名称 派祖 拠点寺院 コメント
鎮西派 聖光房弁長、然阿良忠 筑後善導寺 弁長(1162(応保2)-1238(暦仁1))および良忠(1199(正治1)-1287(弘安10))を派祖とする流派。白旗派・名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派がある。歴史的に観て、浄土宗内でもっとも隆盛した流派である。
西山派善恵房証空三鈷寺証空(1177(治承1)-1247(宝治1))を派祖とする流派。本山流・西谷流・深草流・東山流・嵯峨流・六角流がある。
長楽寺派隆寛京都長楽寺隆寛(1148(久安4)-1227(安貞1))を派祖とする流派。その教えから「多念義」とも呼ばれる。隆寛の弟子に敬日、智慶、信阿、聖実、理観がいた。智慶の五代後の種源の没後、振るわなくなった。
九品寺派覚明房長西洛北九品寺長西(1184(元暦1)-1266(文永3))を派祖とする流派。「諸行本願義」、「九品寺義」、「九品寺流」、「九品義」ともいう。念仏が最上の行だとする従来の考えに対して、念仏以外の諸行も阿弥陀仏の本願に叶うものだとする。早くに断絶したという。のちの他宗の僧侶にも影響を与えた。
白河門徒法蓮房信空金戒光明寺信空(1146(久安2)-1228(安貞2))は法然流罪後に教団の経営を行い、基盤を築くのに尽力したが、信空自身の後継者を残すことはしなかったらしい。信空一代かぎりの勢力だったらしい。
紫野門徒勢観房源智知恩院知恩寺源智(1183(寿永2)-1239(延応1))を派祖とする流派。文永年間(1264-1275)に蓮寂房信慧が良忠とそれぞれの教義を照合したところ、相違がなかったので、鎮西流に合流したという。
嵯峨門徒正信房湛空二尊院湛空(1176(安元2)-1253(建長5))一代かぎりの勢力だったらしい。
大谷門徒親鸞-----親鸞(1173(承安3)-1263(弘長3))を派祖とする流派。「浄土真宗」として独自の発展を遂げた。
一念義派成覚房幸西-----一念義は、一念の教義を信奉する流派である。「一念往生義」「一念業成義」「一念宗」「一念衆」などとも呼ばれた。幸西(1163(長寛1)-1247(宝治1))を派祖とすることが多い。幸西のほか、行空も一念義をとなえた。往生は本願を信じる一念によって成立するとし、念仏はただ感謝を表す行為に過ぎないとした。在家主義の色が強く、この点が反発を受けたという。
幸西は異端として法然から破門された。幸西は建永の法難で阿波に流され、嘉禄の法難で壱岐に流された。行空は元久の法難で処罰され、さらに建永の法難で、佐渡に流された。
当初は非常に盛んだったらしく、幸西の法系は京と安房とでしばらく存続した。他の教義に対して非妥協的であったことと、京都貴族を信徒にできなかったこと、在家信徒が浄土真宗に吸収されたであろうことから、早くに衰退した。
○参考文献:昭和49『浄土宗大辞典』

鎮西派

浄土宗鎮西派の諸流派
流派名 派祖 拠点寺院 コメント
白旗流 良暁寂慧 鎌倉・光明寺
飯沼・弘経寺
浄土宗の事実上の主流。関東三派の一つ。「白旗義」「坂下義」とも称す。相模白旗の地名に由来するという(一説に武蔵国白旗に由来するという)。鎌倉悟真寺(のち蓮華寺、光明寺)。最も栄えて現在の主流となった。勝願寺増上寺関東十八談林、嘆誉良肇の飯沼弘経寺などが勢力拡大に寄与。飯沼弘経寺は関東浄土宗の中心だった。
名越流 尊観良弁 名越善導寺(現鎌倉・安養院
大沢円通寺
山崎専称寺
矢目如来寺
折木成徳寺
関東三派の一つ。善光寺と関わり深い。「名越派」「善導寺流」「善導寺義」とも。尊観は鎌倉の名越(なごえ)に善導寺を創建。大沢の円通寺の流れと、磐城の専称寺の流れに分かれる。大沢円通寺、磐城専称寺、磐城如来寺、岩城成徳寺が本山となった。
藤田流 唱阿性心 武蔵・善導寺 関東三派の一つ。「水沼義」「秩父派」「土塔派」とも。唱阿性心が藤田善導寺高声寺(坂東市岩井)を創建。良心は高声寺を継承し、さらに無量寿寺(茨城県猿島郡五霞町小福田)を建立し、土塔をつくった。岌天が高巌寺(福島県会津若松市)を創建。岌翁が京都知恩寺住職となり、藤田流となった。しかし、17世紀初頭に幡随意呑龍などが白旗流に転属するなどして、白旗・名越に合流して消滅。三河・悟真寺越後高田・善導寺糸魚川・善導寺越後・新善光寺などがある。
一条流 礼阿然空 清浄華院
敦賀・西福寺
近江浄厳院
法光明院
近江・阿弥陀寺
京都三派のうち、最も栄えた。清浄華院や仁和寺西谷の法光明院を拠点とし、皇室とのつながりを築く。持律と泉涌寺教学を支えに浄土教の本流とみなされ、「浄土真宗」と呼ばれていた(『中世後期泉涌寺の研究』)。一時期、金戒光明寺も支配下に置いた。廃絶。「一条流」「西谷流」「法光明院流」とも。
木幡流 慈心良空 宇治尊勝寺(現・宇治・願行寺京都三派の一つ。木幡流(こばたりゅう)は、良忠門下の慈心良空(?-1297(永仁5))を派祖とする流派。良空は、宇治木幡の尊勝寺を創建し、住したので、その流派を「木幡派」「木幡流」と称している。「小幡流」ともいう。良空は、然空、道光とともに良忠門下の重鎮として京都における鎮西派の興隆に寄与した。経典は残っていない。後世、木幡派と称されているが、明確な派閥が形成されたかは不明である。その法系は早くに断絶して、白旗派に合流したものと思われる。良空の後継者としては如一(如空)と唯覚の法系がしばらく続いたのみであるという。如一は知恩寺6世、知恩院8世となっている。また如一は智恵光院を創建した。良空は、1238年(暦仁1年)に宇治木幡に尊勝寺を創建したというが、不自然な年代か。尊勝寺は応仁の乱で焼失し、1576年(天正4年)に願行寺として復興したとされ、現存している。(金岡秀友 昭和49『仏教宗派辞典』、大橋俊雄 1978『法然と浄土宗教団』、昭和49『浄土宗大辞典』、「(63)霧がくれの弥陀(宇治市)」『京都新聞』2007年3月27日)
三条流 道光了慧 京都・悟真寺 京都三派の一つ。三条派は、良忠の弟子の道光了慧(1243(寛元1)-1330(元徳2))を派祖とする流派である。拠点の悟真寺蓮華堂が三条にあったので、「三条派」「三条流」「蓮華堂義」という。
鎌倉出身の了慧は1272年(文永9年)に京都に移り、京都三条に悟真寺を創建した。了慧は、法然の遺文を集めた『黒谷上人語灯録』や弁長・良忠の伝記など多くの著作を編纂した。また円頓戒の精通者でもあり、伏見天皇にも円頓戒を授けたという。慈心、然空とともに京都の鎮西派の興隆に寄与した。法系は、浄忠、良禅、妙徳、妙実と次第するが、15世紀なかばには衰退して、白旗派に吸収された。悟真寺は、のち四条大宮に移り、さらに太秦に移転した。また三条悟真寺の跡地には、1611年(慶長16年)に袋中檀王法林寺を創建している。(大橋俊雄 1978『法然と浄土宗教団』、昭和49『浄土宗大辞典』)
一向流 一向 番場蓮華寺
天童仏向寺
踊り念仏を広めた遊行僧の一向を開祖とする。時宗の系統とされることもあるが、正確には浄土宗の系譜に連なるものであると言われている。昭和戦前期に蓮華寺と仏向寺が多くの末寺と共に清浄光寺末から知恩院末に転じた。

西山派

流派名 派祖 拠点寺院 コメント
西谷流(せいこく) 法興浄音 禅林寺
粟生光明寺
西山派の二大流派の一つ。法興浄音(1201(建仁1)-1271(文永8))を祖とする。法興浄音は、はじめ天台宗の慈円のもとで出家するが、証空の弟子となった。その教説は善導を重視したものであった。浄土五祖について、難易廃立の点では五祖一轍としたが、通別廃立については五祖異轍を主張し、善導を評価した。法興浄音は粟生光明寺に住して、のち新光明寺仁和寺西谷に創建し、さらに証空のあとを継いで禅林寺に住した。法興浄音の弟子には、観智、了音(六角流の祖)、観性がいた。観智は関東地方に布教し、その弟子は鵜ノ木光明寺を拠点として活動。最初、関東地方に広まり、のち京都に広まった。南北朝時代、識阿が吾妻・善導寺を創建し、教学の中心となった。室町時代以降、深草流とともに西山派の代表と見なされるようになった。光明寺と禅林寺を中心としてきており、近世には幕府より「両本山」「両本寺」と呼ばれた。
深草流 極楽房円空立信 誓願寺
真宗院
岩津円福寺
西山派の二大流派の一つ。極楽房円空立信(隆信)(1213(建保1)-1284(弘安7))は、証空に師事して出家する。宝治年間(あるいは1251年(建長3年))に深草に真宗院を創建した。後深草天皇の帰依を受けた。道意は綾小路に寺院を創建し、花園天皇より円福寺の号を賜った。
教空竜芸は、三河に布教して、法蔵寺を再興した。以後、法蔵寺や妙心寺などの三河十二本寺と呼ばれる寺院ができるほど、三河に勢力を築いた。
東山流 観鏡証入 阿弥陀院(廃絶) 早くに断絶。「宮辻義」とも。証入(1196-1245)は、東山宮辻に阿弥陀院を創建して五祖一轍義を主張した。門下に覚入、観日、観明、唯覚がいる。観日門下の了観は三福院を創建した。南北朝時代になり衰退した。阿弥陀院は三福寺に吸収されたともいう。名越新善光寺
嵯峨流 道観証慧 浄金剛院(廃絶)
財恩院(廃絶)
早くに断絶。「小倉流」「小倉義」「浄金剛院流」「八幡流」とも。道観証慧(1195(建久6)-1264(文永1))は証入(東山流の祖)に師事し、そのあと証空に学んだ。後嵯峨天皇の帰依を得たという。門下には実意、道念(道然)、尊道、円道、覚道などがいた。教義に関する著書は現存しない。円道門下の本明は八幡の財恩院を拠点に活動し、「八幡流」の語源となった。拠点となった寺院は、京都嵯峨の浄金剛院(現在の天龍寺の辺りにあった)で、山城八幡の石清水八幡宮の神宮寺の一つであった財恩院も拠点の一つとなった。東山流と同じころに断絶したらしい。
本山流 康空示導 三鈷寺 「三鈷寺流」、「三鈷寺義」、「根本山義」、「本山義」ともいう。示導(1286(弘安9)-1346(正平1/貞和2))は証空門下の遊観の弟子玄観に師事した。三鈷寺(根本山往生院)を拠点とした。六角流と同じころに断絶したという。本山流の寺院としては三鈷寺のほか、般舟三昧院がある。廬山寺二尊院も本山流だった時期がある。
六角流 了音 六角・本願寺 西谷流より別れる。名称は了音が京都大宮六角に住んでいたため。本山流と同じころに断絶したという。
時宗 一遍 一遍は、証空門下の聖達の弟子である。


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