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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

越後・新善光寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2015年2月22日 (日)

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新善光寺(しんぜんこうじ)は、新潟県東蒲原郡阿賀町津川にある、下越地方・会津地方における浄土宗鎮西派藤田流(廃絶)の拠点だった善光寺信仰寺院。越後国蒲原郡。善光寺聖(ひじり)の定尊が創建したが、藤田流の感誓岌天(きゅうてん)が再興。京都知恩寺30世の岌州(ぎゅうしゅう)の出身寺院でもある。現在は浄土宗知恩院派。「津川新善光寺」「仏光山称応院新善光寺」。

伝説的な善光寺聖として知られる甚目寺定尊が善光寺如来を祭り、建久元年(1190)に創建したとされる(ウェブサイト。浄土宗全書にも建久年間とある)。当初は現在地から5km西の小川庄西村の地(現・阿賀町西)にあったという。越後は信濃善光寺に近いことから善光寺信仰が盛んであった。

藤田流の実質的な本山であった下総高声寺4世唱名の弟子感誓が、貞治元年(1362)に中興し、浄土宗藤田流の寺院とした。感誓は感生とも書き、諱を道教という(浄土宗全書)。

5世梅岌のときに「伽藍完備」(浄土宗全書)したというがその後、戦乱で荒廃。高声寺8世岌伝(きゅうでん)の弟子岌天(きゅうてん)が会津黒川(現・会津若松)に高巌寺を創建後、蘆名氏内乱を避けるために永正年間(1504-1520)末に当寺に移り、再興した。津川は蘆名氏の領地で、津川は「会津津川」(浄土宗全書)と呼ばれるほど会津の影響が強かった。

岌天以降、会津高巌寺とともに会津・下越地方における藤田流の中心寺院となった。

岌天の弟子岌州(ぎゅうしゅう)は当寺を継承したあと、京都知恩寺30世となった。岌州は、近衛前久や上杉謙信とも関わり、京都や関東で行動を共にしたことは史料上明らかとされる。岌州が出家した正徳寺(会津坂下町(ばんげまち)青木)には彼の遺品(町指定重要文化財)が残されている。


参考文献

  • 新善光寺ウェブサイト
  • 藤本顕通「藤田派の教線域と名越派の交渉」
  • 渡部伸一「会津地方の藤田派の動静について」
  • 『浄土宗全書』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E3%83%BB%E6%96%B0%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA」より作成

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