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清水寺成就院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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*24忍向()<>:蔵海の甥。1827年(文政10年)1月、成就院付弟となる。園基茂の猶子となる。久丸と名乗る。忍介。忍鎧。忍海。月照の名で知られる。1835年(天保6年)5月5日成就院住職。1853年(嘉永6年)7月、無断で出奔。隠密の旅に出る。善光寺に参詣し、会田に逗留。木曽路を経て10月8日に帰京。伊豆で異国船を視察した、水戸で勤王志士と交流したともいわれるが後世の創作という。11月、興福寺一乗院に事が露見。高野山に籠もる。1854年(安政1年)2月、隠居を命じられた。清閑寺に閑居する。1858年(安政5年)、安政の大獄で幕吏に追われ、薩摩に逃れる。11月16日、西郷隆盛とともに入水し死去(西郷隆盛は一命をとりとめた)。南林寺に仮埋葬。
*24忍向()<>:蔵海の甥。1827年(文政10年)1月、成就院付弟となる。園基茂の猶子となる。久丸と名乗る。忍介。忍鎧。忍海。月照の名で知られる。1835年(天保6年)5月5日成就院住職。1853年(嘉永6年)7月、無断で出奔。隠密の旅に出る。善光寺に参詣し、会田に逗留。木曽路を経て10月8日に帰京。伊豆で異国船を視察した、水戸で勤王志士と交流したともいわれるが後世の創作という。11月、興福寺一乗院に事が露見。高野山に籠もる。1854年(安政1年)2月、隠居を命じられた。清閑寺に閑居する。1858年(安政5年)、安政の大獄で幕吏に追われ、薩摩に逃れる。11月16日、西郷隆盛とともに入水し死去(西郷隆盛は一命をとりとめた)。南林寺に仮埋葬。
*25信海()<>:忍向の弟。蔵海の甥。1829年(文政12年)3月、成就院来訪。光乗院付弟となる。長丸、義蔵と名乗る。1830年(天保1年)光乗院住職。飛鳥井雅光の猶子。1835年(天保6年)9月12日、高野山に修学。高野山の宝蔵院、修学院、万勝院の住職を歴任。雲伝神道の伝授を受ける。兄の出奔により呼び戻され、光乗院住職。1854年(安政1年)2月2日、成就院住職。高野山万勝院も引き続き兼務した。1859年(安政6年)1月、安政の大獄で捕縛。江戸に護送され、3月18日、小伝馬町牢獄で獄死。小塚原に埋葬された。
*25信海()<>:忍向の弟。蔵海の甥。1829年(文政12年)3月、成就院来訪。光乗院付弟となる。長丸、義蔵と名乗る。1830年(天保1年)光乗院住職。飛鳥井雅光の猶子。1835年(天保6年)9月12日、高野山に修学。高野山の宝蔵院、修学院、万勝院の住職を歴任。雲伝神道の伝授を受ける。兄の出奔により呼び戻され、光乗院住職。1854年(安政1年)2月2日、成就院住職。高野山万勝院も引き続き兼務した。1859年(安政6年)1月、安政の大獄で捕縛。江戸に護送され、3月18日、小伝馬町牢獄で獄死。小塚原に埋葬された。
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(図録『京都清水寺』2013)
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(『清水寺史』、図録『京都清水寺』2013)
[[category:京都府]]
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2021年5月1日 (土) 時点における版

清水寺成就院は、清水寺の本願を務めた旧本坊。


組織

住職

  • 願阿弥()<>:時宗の僧。
  • 1宣阿()<>:
  • 2清忠()<>:
  • 3弁清()<>:
  • 4頼秀()<>:
  • 5観誉()<>:
  • 6清金()<>:
  • 7賢周()<>:
  • 8観行()<>:
  • 9玉円()<>:
  • 10周仙()<>:1574年(天正2年)生。1629年(寛永6年)2月死去。
  • 11堯順()<>:1603年(慶長8年)生。1633年(寛永10年)1月6日、上人号勅許。1667年(寛文7年)11月、宝珠院に隠居。1668年(寛文8年)2月13日死去。
  • 12寿性()<>:近江国野洲郡出身。豊臣秀吉家臣本間久八郎の子。1616年(元和2年)生。10歳で堯順に師事。16歳で受戒。23歳で金剛峰寺で快舜から灌頂。1655年(明暦1年)8月本願職に就任。1667年(寛文7年)成就院住職。1670年(寛文10年)12月上人号勅許。1682年(天和2年)4月12日死去。67歳。
  • 13堯慎()<>:1682年(天和2年)成就院住職。1683年(天和3年)8月9日上人号勅許。1691年(元禄4年)5月9日死去。41歳。
  • 14笹丸()<>:旗本の雀部六太夫の子。入寺せず。
  • 15寿清()<>:1691年(元禄4年)頃、住職の笹丸に代わり看坊となる。1697年(元禄10年)8月、正式な住職となる。21日本願職。1698年(元禄11年)5月、上人号勅許。1705年(宝永2年)12月隠居。宥伝坊と号す。
  • 16隆性()<>:隆光の甥。1705年(宝永2年)12月13日、わずか9歳で住職となる。1730年(享保15年)10月2日死去。34歳。
  • 17清巓()<>:1717年(享保2年)生。倉橋三位の子。甘露寺規長の猶子。幼名は余所丸。1730年(享保15年)入寺決定するも正式に入寺するのは1737年(元文2年)11月。1748年(寛延1年)2月、参内して上人号を得る。のち賢雅と改名。1774年(安永3年)4月16日、一乗院から蟄居を命じられた。
  • 18快音()<>:1776年(安永5年)5月、一乗院宮から成就院住職に任命された。和歌山藩士村上三左衛門の子。紀三井寺で出家。1777年(安永6年)3月、内紛により隠居を命じられた。
  • 19隆豊()<>:1779年(安永8年)2月23日、成就院住職。橋本家猶子となる。和歌山藩士千賀市左衛門尉の子。栄福寺了快に師事。光平寺方常に得度受戒。高野山で学び仁和寺蓮乗院に入る。1786年(天明6年)4月27日隠居。
  • 20賢杲()<>:光乗院住職。1786年(天明6年)4月、成就院住職。1790年(寛政2年)5月、隠居。
  • 21盛興()<>:慈心院住職。1790年(寛政2年)5月11日、成就院住職。1803年(享和3年)閏1月14日退任。
  • 22範如()<>:慈心院住職。1807年(文化4年)10月、成就院住職。1815年(文化12年)退任。
  • 23蔵海()<>:讃岐善通寺村出身。弥谷寺で得度。牛額寺に師事。寂照院(長岡京市)で学ぶ。歌人として名を馳せる。1819年(文政2年)3月13日、成就院住職。園基茂の猶子となる。1827年(文政10年)10月、上人号勅許。聖教類・古文書の収集整理を進める。1835年(天保6年)5月21日死去。59歳。墓は清閑寺にある。
  • 24忍向()<>:蔵海の甥。1827年(文政10年)1月、成就院付弟となる。園基茂の猶子となる。久丸と名乗る。忍介。忍鎧。忍海。月照の名で知られる。1835年(天保6年)5月5日成就院住職。1853年(嘉永6年)7月、無断で出奔。隠密の旅に出る。善光寺に参詣し、会田に逗留。木曽路を経て10月8日に帰京。伊豆で異国船を視察した、水戸で勤王志士と交流したともいわれるが後世の創作という。11月、興福寺一乗院に事が露見。高野山に籠もる。1854年(安政1年)2月、隠居を命じられた。清閑寺に閑居する。1858年(安政5年)、安政の大獄で幕吏に追われ、薩摩に逃れる。11月16日、西郷隆盛とともに入水し死去(西郷隆盛は一命をとりとめた)。南林寺に仮埋葬。
  • 25信海()<>:忍向の弟。蔵海の甥。1829年(文政12年)3月、成就院来訪。光乗院付弟となる。長丸、義蔵と名乗る。1830年(天保1年)光乗院住職。飛鳥井雅光の猶子。1835年(天保6年)9月12日、高野山に修学。高野山の宝蔵院、修学院、万勝院の住職を歴任。雲伝神道の伝授を受ける。兄の出奔により呼び戻され、光乗院住職。1854年(安政1年)2月2日、成就院住職。高野山万勝院も引き続き兼務した。1859年(安政6年)1月、安政の大獄で捕縛。江戸に護送され、3月18日、小伝馬町牢獄で獄死。小塚原に埋葬された。

(『清水寺史』、図録『京都清水寺』2013)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AF%BA%E6%88%90%E5%B0%B1%E9%99%A2」より作成

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