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満徳寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月4日 (日)

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満徳寺(まんとくじ)は群馬県太田市徳川町(上野国新田郡)にあった徳川家ゆかりの時宗寺院。本尊は阿弥陀如来。廃絶。鎌倉東慶寺と共に縁切寺として知られた。本堂には御神殿之間と御尊牌間もあった。徳川家のほか、有栖川宮家や対馬宗家の位牌も祀った。時宗の無本寺だった。「尼寺御所」とも称したものの比丘尼御所(尼門跡寺院)として朝廷に認められた形跡はない。徳川東照宮が近くにある。

目次

歴史

  • 鎌倉時代:徳川義季、浄念尼を開山として創建。
  • 遊行上人知蓮代:『時衆過去帳・尼衆』に「徳川 大一房」と記入されている。
  • 1591年(天正19年)11月:徳川家康、朱印地100石寄進。
  • 1745年(延享2年):清浄光寺と争うが、無本寺として認められる。
  • 1758年(宝暦8年):駆入の初例。
  • 1805年(文化2年):全焼。
  • 1872年(明治5年):順誉智本が帰農届を出し、退任。1871年(明治4年)とも。


組織

住職

  • 「歴代住職一覧」[1]
  • 「世代住職一覧」[2]
  • 歴代が大一房と称す。
  • 察誉恵白以降、蓮社号・誉号を名乗っており浄土宗に接近していたか。
世数 生没年 在職年 略歴
1 浄念 生没年不詳 不詳 徳川義季の娘
2 浄院 生没年不詳 不詳 世良田頼氏の娘。
3 念空 生没年不詳 不詳 烏山時成の妻。
4 慈円 生没年不詳 不詳 念空の孫
明栄 生没年不詳 不詳 某年5月20日死去。
理栄 ?-1593 不詳 1593年(文禄2年)5月27日死去。
寿栄 ?-1609 不詳 1609年(慶長14年)3月9日死去。
中興1 俊澄 1591-1650 1615-? 浅井明政の孫。1615年(元和1年)就任。1650年(慶安3年)5月12日死去。60歳。
2 澄清 ?-1671 不詳 俊澄の弟子。徳川季忠娘から派遣される。1671年(寛文11年)6月8日死去。
3 俊栄 ?-1703 不詳 澄清の弟子。春日局から派遣される。1703年(元禄16年)9月23日死去。
4 慈白 ?-1744 不詳 俊栄の弟子。1744年(延享1年)12月2日死去。
5 珠白 ?-1720 不詳 水島伝助の妹。1720年(享保5年)5月1日死去。
6 察誉恵白 ?-1803 不詳 菱田氏。1803年(享和3年)12月7日死去。観蓮社。
7 欣誉助白 ?-1832 不詳 水野氏。再任(1801年(享和1年)か)。1806年(文化3年)退任。1832年(天保3年)9月2日死去。厭蓮社。
8 大誉利白 ?-1801 ?-1801 神保備前守の娘。1801年(享和1年)退任。1801年(享和1年)8月5日死去。成蓮社。
9 信誉本栴 1779-1860 1806-1830 紀伊徳川家内藤右門の伯母。1806年(文化3年)就任。1830年(天保1年)退任。1860年(万延1年)11月26日死去。82歳。意白。仰蓮社。
10 鏡誉本清 生没年不詳 1830-1842 有栖川宮家中川忠道の妹。1830年(天保1年)就任。1842年(天保13年)退任。丹蓮社。
11 誓誉教栴 1810-1887 1844-1854 大久保内膳の姉。1844年(弘化1年)就任。1854年(安政1年)退任。1887年(明治20年)2月6日死去。78歳。本蓮社。
12 順誉智本 1797-1878 1854-1872 長彦四郎の叔母。1854年(安政1年)就任。1872年(明治5年)退任。1878年(明治11年)8月17日死去。82歳。信蓮社。

資料

  • 五十嵐富夫1967『縁切寺の研究―徳川満徳寺の寺史と寺法』[3]
  • 高木侃1976『縁切寺満徳寺史料集』[4]
  • 1984『徳川満徳寺史』[5]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%BA%80%E5%BE%B3%E5%AF%BA」より作成

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