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源家の祭祀
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
源家の祭祀
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'''源家'''は[[源氏]]宗家。清和源氏の嫡流とみなされる。河内源氏。[[関東祈祷所]]。 == 一覧 == *[[通法寺]] *[[壺井八幡宮]] *[[野間大坊]] *[[寿福寺]] *[[勝長寿院]](廃寺) *[[修禅寺]] *[[鎌倉・大慈寺]](廃寺) *[[鎌倉・安養院]] *[[理智光寺]](廃寺) *[[西養寺]]:高知県高知市介良(土佐国長岡郡)。真言宗。廃絶。源頼朝弟の源希義の菩提寺で墓が現存する。 ==歴代== *貞純親王(?-916):[[清和天皇]]皇子。墓所は[[山城・円覚寺]]そばの[[貞純親王墓]](治定外)。 *[[源経基]](?-961?):清和天皇の皇孫。墓所は[[六孫王神社]]の[[源経基墓]]。墓廟が発展して神社となった。神号は六孫王権現。神階は正一位。 *[[源満仲]](912-997):源経基の長男。多田満仲。墓所は[[多田神社]]の[[源満仲墓]]。墓廟が発展して神社となった。神号は多田権現。神階は正一位。 *1源頼信(968-1048):源満仲の三男。[[石清水八幡宮]]を氏神と仰ぐ。河内を拠点とし、武家としての地位を築く。[[通法寺]]の南にある小山に墓がある([[源頼信墓]])。[[壺井権現社]]祭神。 *2源頼義(988-1075):源頼信の長男。前九年の役で陸奥国の[[安倍氏]]を滅ぼし、武家の代表者としての地位と、源氏の東国進出の拠点を築いた。鎌倉に[[鶴岡八幡宮]]の前身を建てた。通法寺の本堂の床下に埋葬されたといわれる。本堂跡に墓碑が建てられている([[源頼義墓]])。壺井権現社祭神。 *3源義家(1039-1106):源頼義の長男。後三年の役。八幡太郎。通法寺の南にある小山に墓がある([[源義家墓]])。壺井権現社祭神。 *4源義忠(?-1109):源義家の四男。同族に暗殺された。墓所不明。 *5源為義(1096-1156):源義親の子。源義家の孫。保元の乱で[[崇徳天皇]]方に付き敗れる。長男の義朝に斬首される。京都に[[源為義墓]]。[[伴緒社]]祭神。 *6[[源義朝]](1123-1160?):源為義の長男。保元の乱で[[後白河天皇]]方について勝つ。敵方についた父を処刑した。平治の乱で[[平清盛]]排除を狙うが敗れて討たれた。墓所は[[大御堂寺]]と[[勝長寿院]]跡にある。菩提寺は両寺の他、鎌倉[[亀谷堂]]もあった。 *7[[源頼朝]](1147-1199):源義朝の子。鎌倉幕府初代将軍。母は[[熱田神宮]]大宮司藤原季範の娘。墓は[[鎌倉・白旗神社]]。菩提寺は[[寿福寺]]、[[鎌倉・大慈寺]]、[[鎌倉・安養院]]。 *8[[源頼家]](1182-1204):源頼朝の子。鎌倉幕府2代将軍。[[北条家]]に追放された。[[修禅寺]]で暗殺された。鎌倉[[寿福寺]]や京都[[建仁寺]]の開基。墓は修禅寺。法名は法華院殿金吾大禅閤。 *9[[源実朝]](1192-1219):源頼朝の子。鎌倉幕府3代将軍。[[鎌倉・大慈寺]]を創建。公暁に暗殺された。勝長寿院に葬られたというが墓碑などは現存しない。[[源実朝首塚]]が秦野金剛寺にある。[[高野山]][[金剛三昧院]]に分骨。[[寿福寺]]に供養塔([[源実朝墓]])。菩提寺は[[京都・大通寺]]。御影像が寿福寺、大通寺、[[甲斐善光寺]]、秦野金剛寺にある。
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