ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
瀧安寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(版間での差分)
3行: | 3行: | ||
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
箕面の滝が霊場としての起源とみられる。 | 箕面の滝が霊場としての起源とみられる。 | ||
- | + | 『元亨釈書』などによると、658年、役小角が弁財天の導きで、箕面の滝に至り、霊窟で[[弥勒菩薩]]から秘法を授けられたという。 | |
その報恩として弁財天を祭り、最初は箕面寺と称した。 | その報恩として弁財天を祭り、最初は箕面寺と称した。 | ||
701年6月7日、流罪から許された役小角は箕面の[[天上ケ岳]]から昇天したとされる。 | 701年6月7日、流罪から許された役小角は箕面の[[天上ケ岳]]から昇天したとされる。 | ||
9行: | 9行: | ||
『扶桑略記』には応和2年(962)、千観が「蓑尾山観音院」で『法華三宗相対抄』を著したとの記述がある。 | 『扶桑略記』には応和2年(962)、千観が「蓑尾山観音院」で『法華三宗相対抄』を著したとの記述がある。 | ||
+ | 『法華験記』には[[比叡山]]の永慶という僧が箕面の滝に籠って法華経を唱え、龍樹菩薩の示現を感得したという。 | ||
- | |||
1225年、創建以来の火災に見舞われた。 | 1225年、創建以来の火災に見舞われた。 | ||
1238年、将軍藤原頼経が参詣。伽藍再建の落慶法要を行ったらしい。 | 1238年、将軍藤原頼経が参詣。伽藍再建の落慶法要を行ったらしい。 | ||
- | + | 南北朝時代には南朝に付く。瀧安寺の名は[[後醍醐天皇]]から授けられたという。 | |
1431年、火災。 | 1431年、火災。 | ||
- | + | 1603年、覚玄が再興。この時、寺地を箕面の滝のそばから現在地に移した。 | |
1693年、役小角1000年忌を前に現在の伽藍の多くが整備された。 | 1693年、役小角1000年忌を前に現在の伽藍の多くが整備された。 | ||
- | + | (『日本歴史地名大系』) | |
[[Category:大阪府]] | [[Category:大阪府]] |
2019年7月28日 (日) 時点における版
瀧安寺(りゅうあんじ)は、大阪府箕面市にある弁才天を祀る本山派の修験寺院。役小角が創建した。岩本坊があった。また山上には役小角が昇天した天上ケ岳がある。吉祥院、箕面寺。山号は箕面山。
歴史
箕面の滝が霊場としての起源とみられる。 『元亨釈書』などによると、658年、役小角が弁財天の導きで、箕面の滝に至り、霊窟で弥勒菩薩から秘法を授けられたという。 その報恩として弁財天を祭り、最初は箕面寺と称した。 701年6月7日、流罪から許された役小角は箕面の天上ケ岳から昇天したとされる。
『扶桑略記』には応和2年(962)、千観が「蓑尾山観音院」で『法華三宗相対抄』を著したとの記述がある。
『法華験記』には比叡山の永慶という僧が箕面の滝に籠って法華経を唱え、龍樹菩薩の示現を感得したという。
1225年、創建以来の火災に見舞われた。
1238年、将軍藤原頼経が参詣。伽藍再建の落慶法要を行ったらしい。
南北朝時代には南朝に付く。瀧安寺の名は後醍醐天皇から授けられたという。
1431年、火災。
1603年、覚玄が再興。この時、寺地を箕面の滝のそばから現在地に移した。 1693年、役小角1000年忌を前に現在の伽藍の多くが整備された。 (『日本歴史地名大系』)