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神代三山陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年7月30日 (土)

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'''神代三山陵'''は[[神代三代]]の[[陵墓]]の総称。近代以降、[[天皇即位]]後に奉幣される。
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== 一覧 ==
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===陵墓===
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*[[可愛山陵]]:[[天津日高彦火瓊瓊杵尊]]の陵墓。鹿児島県薩摩川内市宮内。1874年(明治7年)7月10日治定。
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*[[高屋山上陵]]:[[天津日高彦火火出見尊]]の陵墓。鹿児島県霧島市溝辺町麓。1874年(明治7年)7月10日治定。
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*[[吾平山上陵]]:[[天津日高彦波〓武〓〓草葺不合尊]]の陵墓。鹿児島県鹿屋市吾平町上名。1874年(明治7年)7月10日治定。
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===陵墓参考地===
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*[[男狭穂塚陵墓参考地]]:天津日高彦火瓊瓊杵尊。宮崎県西都市三宅。1896年(明治29年)6月23日治定。
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*[[北川陵墓参考地]]:天津日高彦火瓊瓊杵尊。宮崎県延岡市北川町長井俵野。[[可愛岳]]東麓にある。1896年(明治29年)6月23日治定。
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*[[鵜戸陵墓参考地]]:天津日高彦波〓武〓〓草葺不合尊。宮崎県日南市宮浦。[[鵜戸神宮]]境内。1895年(明治28年)12月4日治定。
== 歴史 ==
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[[神代三代]]も参照。
ホホデミは記紀両方に記述がある。
ホホデミは記紀両方に記述がある。
ニニギ、ウガヤフキアエズの2代の陵墓について、古事記は何も語らないが日本書紀に記述がある。
ニニギ、ウガヤフキアエズの2代の陵墓について、古事記は何も語らないが日本書紀に記述がある。
くだって平安時代の『延喜式』によると、京都[[文徳天皇陵]]の南側に遥拝所があったという。
くだって平安時代の『延喜式』によると、京都[[文徳天皇陵]]の南側に遥拝所があったという。
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*1851年(嘉永4年):鹿児島藩主島津斉彬、後醍院真柱・八田知紀・関勇助らに社寺陵墓の調査を命じる。
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明治5年6月、[[明治天皇]]が鹿児島県に行幸した際、所在地が確定していないまま神代三山陵に奉幣。23日午前7時、行在所(第七高等学校造士館)から遥拝した。
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*1866年(慶応2年)5月:鹿児島藩、神仏分離・廃仏毀釈。
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明治6年2月15日、歴代山陵追祭を行うことが決まった時、神代三山陵についても追って定めることが達せられた。
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*1868年(明治1年)4月:神祇事務局、三雲藤一郎・三島通庸に神代三山陵の調査を命じる。
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そして明治7年7月10日、明治天皇は現在地3カ所に治定した。
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*1868年(明治1年)9月:鹿児島藩、「廃仏令」を発布。
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*1872年(明治5年)6月:[[明治天皇]]が鹿児島県に行幸した際、所在地が確定していないまま神代三山陵に奉幣。23日午前7時、行在所(第七高等学校造士館)から遥拝した。
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昭和4年2月、即位式直後の[[昭和天皇]]は一代一度の儀として神代三山陵に奉幣することを仰出。
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*1873年(明治6年)2月15日:歴代山陵追祭を行うことが決まった時、神代三山陵についても追って定めることが達せられた。
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4月15日可愛山陵、4月17日高屋山上陵、4月19日吾平山上陵に勅使が参向し、奉幣された。
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*1874年(明治7年)7月10日:明治天皇は現在地3カ所に治定した。[https://www.digital.archives.go.jp/item/1385998]
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*1875年(明治8年)4月22日:教部省、鹿児島県からの神代三山陵の制札について天皇陵に準じるように達する。[https://www.digital.archives.go.jp/item/1385913]
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平成大礼の時も踏襲され、平成3年3月15日に可愛山陵、3月17日に高屋山上陵、3月19日に吾平山上陵に勅使が一代一度の奉幣を行った。
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*1929年(昭和4年)2月:即位式直後の[[昭和天皇]]は一代一度の儀として神代三山陵に奉幣することを仰出。4月15日可愛山陵、4月17日高屋山上陵、4月19日吾平山上陵に勅使が参向し、奉幣された。
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(2006鎌田純一『皇室の祭祀』)
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*1991年(平成3年)3月:平成の天皇、即位にともない、神代三山陵に勅使が一代一度の奉幣を行った。15日に可愛山陵、3月17日に高屋山上陵、3月19日に吾平山上陵に奉幣。(2006鎌田純一『皇室の祭祀』)
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*2020年(令和2年)3月:令和の天皇、即位にともない、神代三山陵に奉幣。14日に可愛山陵、16日に高屋山上陵、18日に吾平山上陵に勅使が参向して奉幣。(神社新報)
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== 一覧 ==
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*[[可愛山陵]]:[[天津日高彦火瓊瓊杵尊]]の陵墓。鹿児島県薩摩川内市宮内。
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*[[高屋山上陵]]:[[天津日高彦火火出見尊]]の陵墓。鹿児島県霧島市溝辺町麓。
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*[[吾平山上陵]]:[[天津日高彦波〓武〓〓草葺不合尊]]の陵墓。鹿児島県鹿屋市吾平町上名。
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[[category:鹿児島県|*]]
[[category:鹿児島県|*]]

2022年7月30日 (土) 時点における最新版

神代三山陵神代三代陵墓の総称。近代以降、天皇即位後に奉幣される。

目次

一覧

陵墓

陵墓参考地

  • 男狭穂塚陵墓参考地:天津日高彦火瓊瓊杵尊。宮崎県西都市三宅。1896年(明治29年)6月23日治定。
  • 北川陵墓参考地:天津日高彦火瓊瓊杵尊。宮崎県延岡市北川町長井俵野。可愛岳東麓にある。1896年(明治29年)6月23日治定。
  • 鵜戸陵墓参考地:天津日高彦波〓武〓〓草葺不合尊。宮崎県日南市宮浦。鵜戸神宮境内。1895年(明治28年)12月4日治定。

歴史

神代三代も参照。 ホホデミは記紀両方に記述がある。 ニニギ、ウガヤフキアエズの2代の陵墓について、古事記は何も語らないが日本書紀に記述がある。 くだって平安時代の『延喜式』によると、京都文徳天皇陵の南側に遥拝所があったという。

  • 1851年(嘉永4年):鹿児島藩主島津斉彬、後醍院真柱・八田知紀・関勇助らに社寺陵墓の調査を命じる。
  • 1866年(慶応2年)5月:鹿児島藩、神仏分離・廃仏毀釈。
  • 1868年(明治1年)4月:神祇事務局、三雲藤一郎・三島通庸に神代三山陵の調査を命じる。
  • 1868年(明治1年)9月:鹿児島藩、「廃仏令」を発布。
  • 1872年(明治5年)6月:明治天皇が鹿児島県に行幸した際、所在地が確定していないまま神代三山陵に奉幣。23日午前7時、行在所(第七高等学校造士館)から遥拝した。
  • 1873年(明治6年)2月15日:歴代山陵追祭を行うことが決まった時、神代三山陵についても追って定めることが達せられた。
  • 1874年(明治7年)7月10日:明治天皇は現在地3カ所に治定した。[1]
  • 1875年(明治8年)4月22日:教部省、鹿児島県からの神代三山陵の制札について天皇陵に準じるように達する。[2]
  • 1929年(昭和4年)2月:即位式直後の昭和天皇は一代一度の儀として神代三山陵に奉幣することを仰出。4月15日可愛山陵、4月17日高屋山上陵、4月19日吾平山上陵に勅使が参向し、奉幣された。
  • 1991年(平成3年)3月:平成の天皇、即位にともない、神代三山陵に勅使が一代一度の奉幣を行った。15日に可愛山陵、3月17日に高屋山上陵、3月19日に吾平山上陵に奉幣。(2006鎌田純一『皇室の祭祀』)
  • 2020年(令和2年)3月:令和の天皇、即位にともない、神代三山陵に奉幣。14日に可愛山陵、16日に高屋山上陵、18日に吾平山上陵に勅使が参向して奉幣。(神社新報)
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