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神武天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | + | '''神武天皇陵'''。神武天皇の陵墓。である。延喜式では「畝傍山東北陵」と記され、現在も陵名を「畝傍山東北陵」(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)としている。 | |
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+ | 『古事記』の神武天皇記には「御陵は畝火山の北の方の白梼の尾の上にあり」(倉野憲司校註『古事記』)とあり、『日本書紀』の神武天皇紀には「明年の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる。」(坂本太郎ほか『日本書紀』)とある。 | ||
+ | また同じく『日本書紀』の天武天皇紀によると、壬申の乱の際に、高市県主であった許梅に、事代主と生霊神が神懸って、神武天皇陵に馬と兵器を献上せよという託宣が下った。よって大海人皇子(天武天皇)は許梅を派遣したという。 | ||
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+ | 平安時代の『延喜式』には「在大和国高市郡。兆域東西一町。南北二町。守戸五烟。」とあり、朝廷によって陵墓を守るための守戸が設置されており、管理が行われていたことが分かる。しかし、ほかの陵墓と同様に、所在が不明になってしまった。 | ||
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+ | 中世には神武天皇の霊を慰めるために、神武天皇陵のそばに[[国源寺]]が創建されていた。 | ||
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+ | 縁起によると、平安時代の天延2年(974年)、[[多武峰寺]]の検校であった泰善のもとに神武天皇神霊が白髪茅蓑の姿で出現し、国家栄福のために講会を行うように託宣したという。そこで、泰善は毎年3月11日に法華講を行うこととしたという。そしてこれを聞いた国司藤原国光は多武峰寺の末寺として方丈堂を建てて観音を祭り、国源寺と称したという(『多武峰略記』)。さらに、越智親家(越智氏の始祖)が神武天皇の託宣を受けて、子の光慧が文治3年(1187年)に国源寺を中興したという(『大和国越智家譜』)。 | ||
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+ | これらは縁起であり、国源寺の実際の創建年代は不明であるが、嘉吉元年(1441年)には史料に見えることから鎌倉時代には存在していたことが判明している(白井伊佐牟2000)。 | ||
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+ | 神武天皇陵の所在は長らく不明となっていたが、江戸時代には、「四条塚山古墳」(現在の[[綏靖天皇陵]])が最有力候補であった。幕府が行った元禄の修陵や文化の修陵においては、「四条塚山古墳」が神武天皇陵として修復された。 | ||
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+ | 文久の修陵において、神武田(「ミサンザイ」とも称す)(現比定地)、四条塚山古墳、洞村の丸山の三つの考証地があったが、1863年(文久3年)2月17日に孝明天皇の勅裁によって神武田に決定した。これを受けて同年5月より12月にかけて修復された。修復においては、文久の修陵において、最大の費用が割かれた。12月8日には柳原光愛が勅使として参向、竣工の奉告がなされた(孝明天皇紀)。翌年5月8日、野宮定功が奉幣使として参向(孝明天皇紀)。1868年(明治1年)7月、暴雨のため一部崩壊した。芝村藩主織田長易が修復し、翌年1月12日に完了した(明治天皇紀)。1890年(明治23年)には付近に[[橿原神宮]]が創建された。紀元二千五百年の1940年(昭和15年)には陵域の整備が行われた。 | ||
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+ | 神武田と呼ばれていた塚は、二つの小さな塚から構成されていた。直径約7メートル、高さ約1メートルのマウンドと、直径約6メートル、高さ約0.6メートルほどのマウンドの二つがあった。このマウンドは中世寺院の跡とも、古墳の残骸とも考えられている。文久の修陵ではこの塚はそのまま残されたが、1898年(明治31年)、現在のマウンドが築造された。それは直径約40メートル、高さ3メートルの一つのマウンドとなっている。(『文久山陵図』解説、『歴史検証天皇陵』23) | ||
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2011年8月23日 (火) 時点における版
目次 |
概要
神武天皇陵。神武天皇の陵墓。である。延喜式では「畝傍山東北陵」と記され、現在も陵名を「畝傍山東北陵」(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)としている。
歴史
古代
『古事記』の神武天皇記には「御陵は畝火山の北の方の白梼の尾の上にあり」(倉野憲司校註『古事記』)とあり、『日本書紀』の神武天皇紀には「明年の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる。」(坂本太郎ほか『日本書紀』)とある。
また同じく『日本書紀』の天武天皇紀によると、壬申の乱の際に、高市県主であった許梅に、事代主と生霊神が神懸って、神武天皇陵に馬と兵器を献上せよという託宣が下った。よって大海人皇子(天武天皇)は許梅を派遣したという。
平安時代の『延喜式』には「在大和国高市郡。兆域東西一町。南北二町。守戸五烟。」とあり、朝廷によって陵墓を守るための守戸が設置されており、管理が行われていたことが分かる。しかし、ほかの陵墓と同様に、所在が不明になってしまった。
中世
中世には神武天皇の霊を慰めるために、神武天皇陵のそばに国源寺が創建されていた。
縁起によると、平安時代の天延2年(974年)、多武峰寺の検校であった泰善のもとに神武天皇神霊が白髪茅蓑の姿で出現し、国家栄福のために講会を行うように託宣したという。そこで、泰善は毎年3月11日に法華講を行うこととしたという。そしてこれを聞いた国司藤原国光は多武峰寺の末寺として方丈堂を建てて観音を祭り、国源寺と称したという(『多武峰略記』)。さらに、越智親家(越智氏の始祖)が神武天皇の託宣を受けて、子の光慧が文治3年(1187年)に国源寺を中興したという(『大和国越智家譜』)。
これらは縁起であり、国源寺の実際の創建年代は不明であるが、嘉吉元年(1441年)には史料に見えることから鎌倉時代には存在していたことが判明している(白井伊佐牟2000)。
近世
神武天皇陵の所在は長らく不明となっていたが、江戸時代には、「四条塚山古墳」(現在の綏靖天皇陵)が最有力候補であった。幕府が行った元禄の修陵や文化の修陵においては、「四条塚山古墳」が神武天皇陵として修復された。
文久の修陵において、神武田(「ミサンザイ」とも称す)(現比定地)、四条塚山古墳、洞村の丸山の三つの考証地があったが、1863年(文久3年)2月17日に孝明天皇の勅裁によって神武田に決定した。これを受けて同年5月より12月にかけて修復された。修復においては、文久の修陵において、最大の費用が割かれた。12月8日には柳原光愛が勅使として参向、竣工の奉告がなされた(孝明天皇紀)。翌年5月8日、野宮定功が奉幣使として参向(孝明天皇紀)。1868年(明治1年)7月、暴雨のため一部崩壊した。芝村藩主織田長易が修復し、翌年1月12日に完了した(明治天皇紀)。1890年(明治23年)には付近に橿原神宮が創建された。紀元二千五百年の1940年(昭和15年)には陵域の整備が行われた。
神武田と呼ばれていた塚は、二つの小さな塚から構成されていた。直径約7メートル、高さ約1メートルのマウンドと、直径約6メートル、高さ約0.6メートルほどのマウンドの二つがあった。このマウンドは中世寺院の跡とも、古墳の残骸とも考えられている。文久の修陵ではこの塚はそのまま残されたが、1898年(明治31年)、現在のマウンドが築造された。それは直径約40メートル、高さ3メートルの一つのマウンドとなっている。(『文久山陵図』解説、『歴史検証天皇陵』23)