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祥瑞寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[大徳寺]]22世華叟宗曇(1352-1428)が創建。一休は華叟宗曇の弟子。「近江の臨済禅の中心道場」とされた。 | [[大徳寺]]22世華叟宗曇(1352-1428)が創建。一休は華叟宗曇の弟子。「近江の臨済禅の中心道場」とされた。 | ||
[[臨済宗大徳寺派]]。[[本福寺]]の北側にある。'''聖瑞庵'''、'''祥瑞庵'''。山号は太平山。 | [[臨済宗大徳寺派]]。[[本福寺]]の北側にある。'''聖瑞庵'''、'''祥瑞庵'''。山号は太平山。 | ||
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1351年、堅田荘の荘務を担っていた尭家というものが大徳寺の良和に玉泉庵を寄進し、1351年、良和はこれを大徳寺に寄進した。 | 1351年、堅田荘の荘務を担っていた尭家というものが大徳寺の良和に玉泉庵を寄進し、1351年、良和はこれを大徳寺に寄進した。 | ||
1391年、玉泉庵の住職の覃澡が新たに聖瑞庵を建て、1391年、原素が継承。 | 1391年、玉泉庵の住職の覃澡が新たに聖瑞庵を建て、1391年、原素が継承。 | ||
1406年、原素が聖瑞庵を大徳寺の華叟宗曇に寄進し、華叟宗曇が住職となり、1410年、正式に大徳寺末となった。 | 1406年、原素が聖瑞庵を大徳寺の華叟宗曇に寄進し、華叟宗曇が住職となり、1410年、正式に大徳寺末となった。 | ||
- | + | 地侍による堅田の殿原衆に支えられて発展した。玉泉庵のその後は不詳(「玉泉庵歴史住持」という史料が残る)。 | |
- | 一休宗純は、21歳の時、師謙翁宗為(?- | + | 一休宗純は、21歳の時、師謙翁宗為(?-1414)の死を悲嘆し[[石山寺]]に参詣後、琵琶湖に入水。 |
一命を取り留めた後、聖瑞庵で華叟宗曇に学んだ。 | 一命を取り留めた後、聖瑞庵で華叟宗曇に学んだ。 | ||
聖瑞庵から瑞祥寺に改名したのは近世のことか。 | 聖瑞庵から瑞祥寺に改名したのは近世のことか。 | ||
+ | [[建仁寺]]445世の竹田益州も住職を務めたことがある。 | ||
(『日本歴史地名大系』ほか) | (『日本歴史地名大系』ほか) | ||
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2020年11月3日 (火) 時点における版
祥瑞寺(しょうずいじ)は滋賀県大津市本堅田(近江国滋賀郡)にある一休宗純ゆかりの臨済宗寺院。本尊は釈迦如来。 大徳寺22世華叟宗曇(1352-1428)が創建。一休は華叟宗曇の弟子。「近江の臨済禅の中心道場」とされた。 臨済宗大徳寺派。本福寺の北側にある。聖瑞庵、祥瑞庵。山号は太平山。
歴史
堅田は延暦寺領内の琵琶湖水運の拠点として発展した町である。 1332年頃、延暦寺横川末の天台宗寺院として了本房という僧が創建した玉泉庵が母体である。 1351年、堅田荘の荘務を担っていた尭家というものが大徳寺の良和に玉泉庵を寄進し、1351年、良和はこれを大徳寺に寄進した。 1391年、玉泉庵の住職の覃澡が新たに聖瑞庵を建て、1391年、原素が継承。 1406年、原素が聖瑞庵を大徳寺の華叟宗曇に寄進し、華叟宗曇が住職となり、1410年、正式に大徳寺末となった。 地侍による堅田の殿原衆に支えられて発展した。玉泉庵のその後は不詳(「玉泉庵歴史住持」という史料が残る)。
一休宗純は、21歳の時、師謙翁宗為(?-1414)の死を悲嘆し石山寺に参詣後、琵琶湖に入水。 一命を取り留めた後、聖瑞庵で華叟宗曇に学んだ。 聖瑞庵から瑞祥寺に改名したのは近世のことか。 建仁寺445世の竹田益州も住職を務めたことがある。 (『日本歴史地名大系』ほか)