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聖徳太子墓
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | 大阪府南河内郡太子町(河内国石川郡)の[[叡福寺]]にある[[聖徳太子]]の[[陵墓]]。皇室治定。現在の墓名は'''磯長墓'''。歴史的には'''磯長廟'''、'''磯長御廟'''、'''聖徳太子廟'''と呼ばれることも多い。古墳名は'''叡福寺北古墳''' | + | [[ファイル:Eifukuji shotoku 008.jpg|thumb|400px|聖徳太子墓]] |
- | + | 大阪府南河内郡太子町(河内国石川郡)の[[叡福寺]]にある[[聖徳太子]]の[[陵墓]]。皇室治定。現在の墓名は'''磯長墓'''。歴史的には'''磯長廟'''、'''磯長御廟'''、'''聖徳太子廟'''と呼ばれることも多い。古墳名は'''叡福寺北古墳'''。生母の穴穂部間人皇女([[用明天皇]]皇后)、妃の膳部大郎女を合葬していると伝え、「三骨一廟」と呼ばれる。しかし、現在の皇室では2人の合葬は治定されていない。円墳。直径54.3m。高さ7.2m。周囲に並ぶ結界石は空海が建てたという伝承がある。石室入り口を覆う二重の瓦屋根の千鳥破風と檜皮屋根の唐破風は他に例をみない。 | |
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2021年4月11日 (日) 時点における版
大阪府南河内郡太子町(河内国石川郡)の叡福寺にある聖徳太子の陵墓。皇室治定。現在の墓名は磯長墓。歴史的には磯長廟、磯長御廟、聖徳太子廟と呼ばれることも多い。古墳名は叡福寺北古墳。生母の穴穂部間人皇女(用明天皇皇后)、妃の膳部大郎女を合葬していると伝え、「三骨一廟」と呼ばれる。しかし、現在の皇室では2人の合葬は治定されていない。円墳。直径54.3m。高さ7.2m。周囲に並ぶ結界石は空海が建てたという伝承がある。石室入り口を覆う二重の瓦屋根の千鳥破風と檜皮屋根の唐破風は他に例をみない。 唐破風の正面には木製の懸仏が掲げられている。阿弥陀三尊像とみられ、被葬者3人の本地仏を表す。