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聖衆来迎寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月17日 (日)
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- | 延暦9年(790)、[[最澄]]が創建した'''地蔵教院'''が起源。最澄作の[[地蔵]]像を祀っていたという。長保3年(1001)、[[源信]]が入り、紫雲の中に阿弥陀聖衆の来迎を感得。紫雲山聖衆来迎寺と改称した。大永7年(1527)、真玄(六角高頼の五男)が再興。元亀元年(1570)、織田信長の焼き討ちを免れた。近世、[[妙法院門跡]]の管轄下にあるとともに、真玄の復興以来、[[元応寺]] | + | 延暦9年(790)、[[最澄]]が創建した'''地蔵教院'''が起源。最澄作の[[地蔵]]像を祀っていたという。長保3年(1001)、[[源信]]が入り、紫雲の中に阿弥陀聖衆の来迎を感得。紫雲山聖衆来迎寺と改称した。大永7年(1527)、真玄(六角高頼の五男)が再興。元亀元年(1570)、織田信長の焼き討ちを免れた。近世、[[妙法院門跡]]の管轄下にあるとともに、真玄の復興以来、[[元応寺]]の影響下にあった。天正年間、智光が入るとともに、正親町天皇の命により応仁の乱で荒廃した元応寺を合併。本尊や法具などを移した。円頓戒の道場となり、[[後宇多天皇]]、[[正親町天皇]]、[[後陽成天皇]]が受戒した。 |
森可成墓や祝部行丸墓がある。 | 森可成墓や祝部行丸墓がある。 | ||
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file:Sdre-347.JPG|聖衆来迎寺 | file:Sdre-347.JPG|聖衆来迎寺 | ||
file:Sdre-348.JPG|聖衆来迎寺 | file:Sdre-348.JPG|聖衆来迎寺 | ||
- | file:Sdre-357.JPG| | + | file:Sdre-357.JPG|本堂 |
- | file:Sdre-349.JPG| | + | file:Sdre-349.JPG|本堂 |
- | file:Sdre-352.JPG| | + | file:Sdre-352.JPG|開山堂 |
- | file:Sdre-353.JPG| | + | file:Sdre-353.JPG|客殿 |
- | file:Sdre-350.JPG| | + | file:Sdre-350.JPG|鎮守 |
- | file:Sdre-351.JPG| | + | file:Sdre-351.JPG|忠魂碑 |
- | file:Sdre-354.JPG| | + | file:Sdre-354.JPG|森可成墓 |
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(日本歴史地名大系ほか) | (日本歴史地名大系ほか) | ||
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2023年12月17日 (日) 時点における最新版
聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ)は、滋賀県大津市にある天台宗寺院。本尊は阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来。天台宗延暦寺派。山号は紫雲山。志賀来迎寺、坂本来迎寺ともいう。(参考:同名寺院来迎寺)
歴史
延暦9年(790)、最澄が創建した地蔵教院が起源。最澄作の地蔵像を祀っていたという。長保3年(1001)、源信が入り、紫雲の中に阿弥陀聖衆の来迎を感得。紫雲山聖衆来迎寺と改称した。大永7年(1527)、真玄(六角高頼の五男)が再興。元亀元年(1570)、織田信長の焼き討ちを免れた。近世、妙法院門跡の管轄下にあるとともに、真玄の復興以来、元応寺の影響下にあった。天正年間、智光が入るとともに、正親町天皇の命により応仁の乱で荒廃した元応寺を合併。本尊や法具などを移した。円頓戒の道場となり、後宇多天皇、正親町天皇、後陽成天皇が受戒した。
森可成墓や祝部行丸墓がある。
(日本歴史地名大系ほか)