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肥前・山王神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
肥前・山王神社
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'''山王神社'''(さんのう・じんじゃ)は長崎県長崎市坂本(肥前国彼杵郡)にある[[山王信仰]]・[[伊勢信仰]]の神社。祭神は[[天照大神]]・[[豊受比売大神]]・[[大山咋大神]]・[[大物主大神]]・[[伊邪那岐大神]]・[[高皇産霊神]](日本歴史地名大系)。日吉神社と浦上皇大神宮が明治に合併して成立した。[[県社]]。'''浦上皇大神宮'''('''浦上皇太神宮''')。'''山王宮'''。'''山王日吉神社'''。 == 歴史 == '''日吉神社'''は1638年(寛永15年)の創建。島原の乱で下向した老中松平信綱が地形が[[比叡山]]の近くに似て地名も坂本であることから山王権現([[日吉大社]])を祀ってはどうかと提案。長崎代官と長崎奉行が協力して建てた。1652年(承応1年)現在地に遷座。別当として[[真言宗]]の白巌山観音院円福寺があった。1845年(弘化2年)拝殿造営。1849年(嘉永2年)社殿造営。1868年(明治1年)日吉神社と改称。まもなく村社となる。 '''浦上皇大神宮'''は1868年(明治1年)、浦上村キリシタンへの取締対策として明治政府が計画。1869年(明治2年)3月に鎮座した。現在の山里小学校の地という。浦上里村の中野郷・家野郷・本原郷の住民を氏子とした。官費で運営されたが1872年(明治5年)官祭停止。1873年(明治6年)7月県社(神道史大辞典。ウェブサイトでは1874年(明治7年))。しかし、住民はキリシタンを棄教せず、1874年(明治7年)8月、台風の被害を受けたこともあり神社は衰退した。1881年(明治14年)、長崎県令内海忠勝は別神社との合併を命じた。1883年(明治16年)12月、合併許可。1884年(明治17年)1月8日、現在地の村社日吉神社に合併した。 1945年(昭和20年)の長崎原爆で被爆。1950年(昭和25年)社殿再建。1960年(昭和35年)拝殿再建。原爆で半壊した一本柱鳥居(二ノ鳥居)が有名。 (日本歴史地名大系ほか) [[Category:長崎県]]
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