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興福寺大乗院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
興福寺大乗院
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'''大乗院'''(だいじょういん)は、奈良県奈良市の法相宗[[興福寺]]の別当を務めた[[門跡寺院]]。廃絶。「'''飛鳥御殿'''」と呼ばれた。本尊は[[十一面観音]]、[[釈迦如来]]、[[阿弥陀如来]](「興福寺諸堂縁起」)。[[興福寺関連旧跡]]。(参考 同名寺院[[大乗院]]) ==歴史== 隆禅が1087年(寛治1年)2月に創建。元は現在の奈良県庁あたりにあった。尋範が入寺して以来、摂家門跡となる。1180年(治承4年)の平重衡の南都焼討で焼失。[[元興寺禅定院]]を譲り受けて移転。以後、元興寺郷を支配。1451年(宝徳3年)、徳政一揆で再び灰燼に帰した。翌年、関白一条兼良の子、尋尊が22歳で晋山。建物や庭園を復興させる様子は『大乗院寺社雑事記』に記録されている。 1465年(寛正6年)から、将軍・足利義政の命で、善阿弥が作庭し、数十年かけて作られ、南都随一の名園と言われた。 明治維新で門跡は還俗し、'''松園男爵家'''となる。1877年(明治10年)に土地建物が売却され、小学校や奈良ホテルの敷地となる。一部は大乗院庭園として復元され、当初の庭園が残存している。1995年(平成7年)から発掘調査が行われた。 宮門跡であった[[興福寺一乗院|一乗院]]と交互に興福寺別当を務めたが、石高を見ても、一乗院の下位にあったと思われる。'''飛鳥御殿'''と呼ばれたのは、禅定院の本坊である[[元興寺]]([[法興寺]])の旧名[[飛鳥寺]]に依るのだろうか。 (大乗院庭園しおり) [[一条家]]、[[九条家]]、[[二条家]]が管領した。[[長谷寺]]を末寺とした。 南北朝時代には武家側に付いた。 [[大安寺]]の近くに[[大乗院門跡大安寺墓地]]がある。経覚の墓がある。 <gallery widths="300" heights="300" perrow="3"> file:興福寺大乗院・八窓庵001.jpeg|奈良国立博物館に移築された大乗院の茶室「八窓庵」 file:興福寺大乗院・八窓庵002.jpeg| file:興福寺大乗院・八窓庵003.jpeg| </gallery> ==組織== ===住職=== *望月信亨『仏教大辞典 付録』、『日本仏家人名辞書』など。番号は新たに便宜上付した) *「大乗院門跡相承次第」『諸門跡承伝系図』[https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100244581/viewer/57] *「大乗院門跡次第」『続群書類従』[https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M1000000000000066955] *興福寺略年代記[http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-396202] {|class="wikitable" |+興福寺大乗院門跡の歴代門主一覧 !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:60%;"|略歴 !style="width:5%;"|別当 |- |1 |'''隆禅''' |1038-1100 |1087- |大乗院開山。藤原政兼(源雅兼とも)の子。1038年(長暦2年)生。興福寺南院の円縁に師事。1073年(延久5年)維摩会講師。1082年(永保2年)律師。1087年(寛治1年)2月、大乗院を開く。1092年(寛治6年)5月16日、権少僧都。1096年(永長1年)3月13日、興福寺権別当となり同時に[[大安寺]]別当、[[長谷寺]]別当を兼ねた。権大僧都。1100年(康和2年)7月24日(10日・14日とも)死去。63歳。 | |- |2 |'''頼実''' |生没年不詳 | |[[源氏]]。1100年(康和2年)長谷寺別当。1114年(永久2年)頃、[[内山永久寺]]を創建。権少僧都。 | |- |3 |'''尋範''' |1101-1174 | |大乗院門跡で初の興福寺別当。法務。藤原師実の子。1164年(長寛2年)5月11日、興福寺別当40世。1172年(承安2年)大僧正。長谷寺別当。金峰山寺検校。内山永久寺を継承。1174年(承安4年)4月9日死去。74歳。初名は弘覚。内山僧正。 |● |- |4 |'''信円''' |1153-1224 | |法務。藤原忠通の四男で慈円の兄。1153年(仁平3年)生。[[興福寺一乗院|一乗院]]10世と大乗院の両門跡を兼務する。金峰山寺検校。長谷寺別当。1181年(養和1年)1月29日、興福寺別当44世。[[正暦寺]]を再興。1224年(元仁1年)死去。'''菩提山本願僧正'''。大僧正。(略歴は[[興福寺一乗院#組織]]を参照) |● |- |5 |実尊 |1180-1236 |1214頃- |法務。松殿基房の子。1180年(治承4年)生。信円に学ぶ。1197年(建久8年)権少僧都。1199年(正治1年)維摩会講師。1201年(建仁1年)権大僧都。1202年(建仁2年)法印。1209年(承元3年)他寺探題。1214年(建保2年)権僧正。この頃、大乗院を継承。1226年(嘉禄2年)7月3日興福寺別当55世。12月30日僧正。長谷寺別当。金峰山寺検校。橘寺別当。1227年(安貞1年)12月15日、法務。1227年(安貞1年)4月23日興福寺大衆が[[多武峰寺]]を焼亡させた責任をとって1228年(安貞2年)5月4日辞任するが8月19日、興福寺大衆の請ですぐに復職。1229年(寛喜1年)5月27日大僧正。10月28日、法務を辞任。1230年(寛喜2年)2月9日、興福寺別当と大僧正を辞任。1236年(嘉禎2年)2月19日、正暦寺で死去。57歳。 |● |- |6 |円実 |1214-1272 | |法務。九条道家の子。1214年(建保2年)生。興福寺別当59世・69世。長谷寺別当。金峰山寺検校。橘寺別当。1235年(嘉禎1年)3月4日別当就任(「仏家次第」)。1258年(正嘉2年)10月18日別当再任(「仏家次第」)。丹波配流。1272年(文永9年)死去。大僧正。 |● |- |7 |実信 |?-1256 | |法務。藤原基通の子。一乗院門跡12世。興福寺別当56世・58世・61世・63世・66世。1230年(寛喜2年)3月、興福寺別当。1233年(天福1年)3月27日興福寺別当。1245年(寛元3年)12月2日興福寺別当。1248年(宝治2年)12月興福寺別当。1250年(建長2年)11月1日興福寺別当。1256年(康元1年)10月17日死去。大僧正。(略歴は[[興福寺一乗院#組織]]を参照) |● |- |8 |尊信 |1226-1283 | |法務。1226年(嘉禄2年)生。九条教実の子。円実のもとで出家。円憲、専英に師事。1235年(嘉禎1年)、わずか8歳で維摩会竪義。1247年(宝治1年)維摩会講師。大乗院門跡8世。1259年(正元1年)11月21日(10月19日とも)、興福寺別当70世。1266年(文永3年)4月4日退任。1278年(弘安1年)1月16日から1279年(弘安2年)12月2日まで興福寺別当75世(大日本史料総合DB)。長谷寺別当。金峰山寺検校。橘寺別当。薬師寺別当。1283年(弘安6年)7月13日死去。58歳。大僧正。 |● |- |9 |慈信 |?-1325 | |法務。一条実経の子。尊信に師事。長谷寺別当、橘寺別当。金峰山寺検校。興福寺別当77世・80世・83世・85世・90世・113世。薬師寺別当。大乗院門跡9世。1281年(弘安4年)4月6日興福寺別当。10月4日辞退。1286年(弘安9年)閏12月25日興福寺別当。1288年(正応1年)5月23日興福寺別当?1291年(正応4年)3月17日興福寺別当。1293年(永仁1年)8月3日興福寺別当。1300年(正安2年)11月興福寺別当。1325年(正中2年)閏1月26日死去。大僧正。(『日本仏家人名辞書』) |● |- |10 |尋覚 |1282-1318 | |法務。一条家経の子。1282年(弘安5年)生。慈信の弟子。1304年(嘉元2年)興福寺別当94世。1308年(延慶1年)10月6日、興福寺別当99世。1315年(正和4年)2月9日興福寺別当103世。長谷寺別当。薬師寺別当。1318年(文保2年)8月15日(27日とも)死去。37歳。大僧正。 |● |- |11 |覚尊 |?-1339 | |九条師教の子。興福寺別当112世・118世。長谷寺別当。橘寺別当。薬師寺別当。1321年(元亨1年)12月10日興福寺別当。1329年(元徳1年)3月25日、興福寺別当。1339年(延元4年/暦応2年)5月11日死去。大僧正。瑜伽神社の近くに覚尊を祀った新宮社があったという。 (日本仏家人名辞書では「尋尊」) |● |- |12 |聖信 |生没年不詳 | |一条内実の子。1304年(嘉元2年)7月19日隠岐配流。権少僧都。 | |- |13 |孝覚 |1319-1368 | |法務。九条房実の子。1319年(元応1年)生。長谷寺別当53世。[[薬師寺]]別当、[[橘寺]]別当。薬師寺別当。1343年(興国4年/康永2年)8月3日興福寺別当。1347年(貞和3年)10月23日、興福寺別当。1368年(正平23年/応安1年)3月25日興福寺別当。1368年(正平23年/応安1年)9月19日死去。50歳。興福寺別当124世・127世・129世。大僧正。 |● |- |14 |孝尊 |生没年不詳 | |九条道教の子。長谷寺別当。橘寺別当。大僧都。早世。(「教尊」とも) | |- |15 |孝尋 |?-1428 | |法務。鷹司冬通の子。九条経教の猶子。1387年(元中4年/嘉慶1年)維摩会講師。1390年(元中7年/明徳1年)3月12日、興福寺別当146世となり、1394年(応永1年)12月、興福寺別当148世に再任。長谷寺別当。橘寺別当。1428年(正長1年)4月18日死去。大僧正。(望月仏教大辞典では孝信の次) |● |- |16 |孝信 |生没年不詳 | |鷹司冬通の子。九条経教の養子。長谷寺別当。橘寺別当。衆徒の訴えで配流となった。権少僧都。(「教信」とも) | |- |17 |孝円 |1378-1410 | |九条経教の子。1378年(天授4年/永和4年)生。1393年(明徳4年)長谷寺別当・橘寺別当・薬師寺別当。1396年(応永3年)維摩会講師。1402年(応永9年)興福寺別当153世。1410年(応永17年)3月26日死去。後宝峰院と号す。大僧正。(「教円」とも) |● |- |18 |経覚 |1395-1473 |1410- |九条経教の子。[[本願寺]][[蓮如]]の師。1395年(応永2年)生。1410年(応永17年)大乗院門跡。1426年(応永33年)興福寺別当。1431年(永享3年)興福寺別当・大僧正。1438年(永享10年)宝寿寺に隠居。1444年(文安1年)、鬼薗山に築城して筒井順永と戦い破れて安位寺に逃れた。1461年(寛正2年)2月興福寺別当。1469年(文明1年)4月、興福寺別当。興福寺別当165世・168世・182世・186世。長谷寺別当。橘寺別当。薬師寺別当。1473年(文明5年)8月27日死去。79歳。安位寺殿。日記に『経覚私要鈔』。(望月仏教大辞典になし) |● |- |19 |尋実 |生没年不詳 | |九条満教の子。早世。(望月仏教大辞典になし) | |- |20 |'''尋尊''' |1430-1508 | |法務。一条兼良の子。1430年(永享2年)生。1456年(康正2年)2月、興福寺別当180世。長谷寺別当59世・61世、薬師寺別当。橘寺別当。1457年(長禄1年)大僧正。1508年(永正5年)5月2日死去。79歳。後大乗三昧院と号す。『大乗院寺社雑事記』『大乗院日記目録』『三箇院家抄』を著す。(望月仏教大辞典になし) |● |- |21 |政覚 |1453-1494 | |二条持通の子。1453年(享徳2年)生。興福寺別当190世。長谷寺別当60世。薬師寺別当。1494年(明応3年)3月16日死去。41歳。大僧正。後智恵光院と号す。(望月仏教大辞典になし) |● |- |22 |慈尋 |生没年不詳 | |一条冬良の子。早世。(「慈尊」とも。望月仏教大辞典になし) | |- |23 |経尋 |1499-1526 | |法務。関白九条尚経の子。1499年(明応8年)生。1522年(大永2年)3月11日、興福寺別当196世。薬師寺別当。1526年(大永6年)7月7日(28日とも)死去。28歳(29歳とも)。大僧正。後大善院と号す。 |● |- |24 |尋円 |?-1581 | |法務。九条尚経の子。興福寺別当203世・208世。薬師寺別当。1549年(天文18年)11月25日別当。1581年(天正9年)1月14日死去。(尊円とも) |● |- |25 |尋憲 |1529-1585 | |法務。二条尹房の子。1529年(享禄2年)生。1577年(天正5年)12月21日、興福寺別当209世。大安寺別当。薬師寺別当。1585年(天正13年)11月20日死去。57歳。大僧正。理趣院と号す。日記『尋憲記』がある。 |● |- |26 |'''義尋''' |1572-1605 | |15代将軍足利義昭の子。1572年(元亀3年)生。1605年(慶長10年)死去。 | |- |27 |信尊 |?-1676 | |鷹司信房の子。興福寺別当214世・216世・218世。1619年(元和5年)3月10日興福寺別当就任(「仏家次第」)。1643年(寛永20年)別当。1659年(万治2年)10月2日別当。1676年(延宝4年)4月3日死去(「基礎講座」)。 |● |- |28 |信賀 |?-1690 | |鷹司教平の子。大乗院門跡28世。1674年(延宝2年)11月21日、興福寺別当221世。1690年(元禄3年)8月19日死去(「基礎講座」)。(信雅とも) |● |- |29 |信覚 |1674-1701 | |鷹司房輔の子。1674年(延宝2年)生。大乗院門跡29世。1699年(元禄12年)8月18日、興福寺別当223世。1701年(元禄14年)5月2日死去。28歳。 |● |- |30 |隆尊 |?-1764 | |鷹司房輔の子。大乗院門跡30世。興福寺別当225世・227世。1764年(明和1年)4月18日死去(「基礎講座」)。 |● |- |31 |隆遍 |1721-1777 | |二条吉忠の子。1721年(享保6年)生。兄弟に園城寺長吏の祐常。学問所を設置して古文書整理を行う。興福寺別当228世。1739年(元文4年)3月19日興福寺別当就任(「仏家次第」)。1777年(安永6年)5月8日死去。 |● |- |32 |隆範 |1773-1829 | |鷹司輔平の子。1773年(安永2年)生。興福寺別当230世・232世。1829年(文政12年)9月20日死去。 |● |- |33 |隆実 |?-1832 | |1832年(天保3年)12月21日死去。(昭尊とも) | |- |34 |隆温 |1811-1875 | |二条治孝の子。1811年(文化8年)生。興福寺別当234世・236世。大乗院門跡34世。還俗して松園隆温。男爵。1875年(明治8年)3月16日死去。 |● |- |35 |'''隆芳''' |1840-1903 | |九条尚忠の次男。1840年(天保11年)生。興福寺別当237世。薬師寺別当。1868年(明治1年)4月29日還俗して松園尚嘉。[[春日大社]]神職。松園男爵家初代。[[生国魂神社]]大宮司。[[広田神社]]大宮司。[[丹生川上神社]]大宮司。1903年(明治36年)死去。(略歴は[[生国魂神社#組織]]を参照) |● |} [[category:奈良県]]
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