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薩摩・感応寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''感応寺'''(かんのうじ)は、鹿児島県出水市にある[[栄西旧跡]]で[[島津家]]菩提寺の[[臨済宗]]寺院。[[臨済宗相国寺派]]。[[島津家感応寺墓地]]がある。(参考:同名寺院[[感応寺]])
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'''感応寺'''(かんのうじ)は、鹿児島県出水市野田町下名にある[[臨済宗]]寺院。本尊は十一面千手観音。[[栄西旧跡]]で[[島津家]]の菩提寺。薩摩・大隅・日向おける臨済宗の最古級寺院。[[十刹]][[臨済宗相国寺派]]。[[島津家感応寺墓地]]がある。山号は鎮国山。'''野田感応寺'''。(参考:同名寺院[[感応寺]])
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==歴史==
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1194年(建久5年)島津忠久が創建。薩摩・大隅・日向の守護職となった忠久は、入国に先立ち、家老本田貞親に命じて先に下向させ、1191年(建久2年)に帰国した栄西を開山として創建。
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忠久は1227年(安貞1年)に鎌倉で死去すると、子の島津忠時は1228年(安貞2年)に塔頭光明院を創建し、父の分骨墓を設けた。その後、5代までの墓地が設けられた。
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1323年(元亨3年)島津忠宗が雲山祖興を中興開山として再興。島津貞久の代にかけて整備し、本寺である東福寺を模した七堂伽藍を誇った。
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1339年(延元4年/暦応2年)12月17日に諸山に、同月23日に十刹に、足利尊氏の御教書で列格した。
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1351年(正平6年/観応2年)1月、足利尊氏が九州に落ちのびた時、本陣を感応寺に置いたという(鹿児島県出水郡誌)。
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ただし『和漢禅刹次第』では東福寺永明院派の諸山格とする。
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1445年(文安2年)、現在の本尊が造立された。
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島津家の庇護を受け、総州家や本田家を帰依。特に薩州家が重視した。1593年(文禄2年)の薩州家の改易と共に衰退した。1869年(明治2年)の廃仏毀釈で廃絶。
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1880年(明治13年)、相国寺末として再興した。
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1971年(昭和46年)本堂再建。
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(日本歴史地名大系、寺院ウェブサイト)
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==境内==
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*本堂:
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*[[島津家感応寺墓地]]:五廟社と呼ばれている。
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==塔頭==
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*光明院:1228年(安貞2年)島津忠時が島津忠久の一周忌に創建。
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*金井軒:1324年(正中1年)本田石見守が創建。
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*沢龍軒:1359年(延文4年)創建。
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*本会軒:1373年(応安6年)創建。
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*隣竹庵:1373年(応安6年)創建。
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*道交軒:1373年(応安6年)創建。
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*金龍院:1470年(文明2年)創建。島津忠国の牌所。
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==組織==
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===歴代住職===
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*[[栄西]]():
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*1雲山祖興():東福寺6世の蔵山順空(1233-1308、高城寺開山)の法嗣。1344年(興国5年/康永3年)死去。
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*2田翁祖珪():
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*10聖薫():徹堂
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*15従薫():島津国久の五男
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*梅嶺():廃仏毀釈を潜り抜けた。
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*荻野独園():
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*35真光():
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*36恵徳():
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==資料==
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*『感応寺由来』:感応寺文書。歴代住職の記載があるという。
[[category:鹿児島県]]
[[category:鹿児島県]]

2020年3月21日 (土) 時点における版

感応寺(かんのうじ)は、鹿児島県出水市野田町下名にある臨済宗寺院。本尊は十一面千手観音。栄西旧跡島津家の菩提寺。薩摩・大隅・日向おける臨済宗の最古級寺院。十刹臨済宗相国寺派島津家感応寺墓地がある。山号は鎮国山。野田感応寺。(参考:同名寺院感応寺

目次

歴史

1194年(建久5年)島津忠久が創建。薩摩・大隅・日向の守護職となった忠久は、入国に先立ち、家老本田貞親に命じて先に下向させ、1191年(建久2年)に帰国した栄西を開山として創建。

忠久は1227年(安貞1年)に鎌倉で死去すると、子の島津忠時は1228年(安貞2年)に塔頭光明院を創建し、父の分骨墓を設けた。その後、5代までの墓地が設けられた。

1323年(元亨3年)島津忠宗が雲山祖興を中興開山として再興。島津貞久の代にかけて整備し、本寺である東福寺を模した七堂伽藍を誇った。


1339年(延元4年/暦応2年)12月17日に諸山に、同月23日に十刹に、足利尊氏の御教書で列格した。 1351年(正平6年/観応2年)1月、足利尊氏が九州に落ちのびた時、本陣を感応寺に置いたという(鹿児島県出水郡誌)。


ただし『和漢禅刹次第』では東福寺永明院派の諸山格とする。 1372年(文中1年/応安5年)9月4日、足利義満が足利将軍家祈祷所とした。

1445年(文安2年)、現在の本尊が造立された。

島津家の庇護を受け、総州家や本田家を帰依。特に薩州家が重視した。1593年(文禄2年)の薩州家の改易と共に衰退した。1869年(明治2年)の廃仏毀釈で廃絶。 1880年(明治13年)、相国寺末として再興した。

1971年(昭和46年)本堂再建。

(日本歴史地名大系、寺院ウェブサイト)

境内


塔頭

  • 光明院:1228年(安貞2年)島津忠時が島津忠久の一周忌に創建。
  • 金井軒:1324年(正中1年)本田石見守が創建。
  • 沢龍軒:1359年(延文4年)創建。
  • 本会軒:1373年(応安6年)創建。
  • 隣竹庵:1373年(応安6年)創建。
  • 道交軒:1373年(応安6年)創建。
  • 金龍院:1470年(文明2年)創建。島津忠国の牌所。

組織

歴代住職

  • 栄西():
  • 1雲山祖興():東福寺6世の蔵山順空(1233-1308、高城寺開山)の法嗣。1344年(興国5年/康永3年)死去。
  • 2田翁祖珪():
  • 10聖薫():徹堂
  • 15従薫():島津国久の五男
  • 梅嶺():廃仏毀釈を潜り抜けた。
  • 荻野独園():
  • 35真光():
  • 36恵徳():

資料

  • 『感応寺由来』:感応寺文書。歴代住職の記載があるという。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E3%83%BB%E6%84%9F%E5%BF%9C%E5%AF%BA」より作成

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