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行願寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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*庫裡:
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*開山堂:廃絶か
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==資料==
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*『一条革堂縁起』:1669年。妙法院宮堯恕法親王筆。
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*瀧善成1937「平安中期後に現れた聖運動の一考察ー行願寺の教会史的研究を中心として」『大正大学々報』26
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*猪川和子1974「京都革堂行願寺千手観音立像」[https://dl.ndl.go.jp/pid/6067334/1/10]
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*篠原昭二1976「清水寺と革堂ー貴賎の交叉点」『國文學』21-7
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*足立祐子2004「『蜻蛉日記』の作者の屋敷の位置」[https://doi.org/10.32152/chukobungaku.74.0_34]
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*中前正志2009「革堂縁起の中の賀茂社縁起と行円伝」『神道史研究』57-2
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[[category:京都府]]
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2023年3月20日 (月) 時点における版

江戸時代の境内(『都名所図会』より)

行願寺(ぎょうがんじ)は、京都府京都市中京区にある観音信仰天台宗寺院。天台宗延暦寺派。本尊は千手観音。西国三十三所観音霊場第19番札所。 開山の行円が革聖と呼ばれたので行願寺は革堂(こうどう)と呼ばれ、この名が定着している。一条北辺堂とも呼ばれた。 本尊は霊夢で賀茂神社の近くの槻樹を得て彫ったものだという(余材は善峰寺の本尊に使われたという) 戦国時代には、下京の六角堂に並んで上京の町堂として機能した。賀茂神社関連旧跡下御霊神社の南に位置する。 鎮宅霊符神堂がある。

歴史

  • 1004年12月11日:行円が一条油小路に創建(百錬抄、日本紀略)
  • 1140年:雷火で塔が焼失
  • 1141炎上
  • 1151炎上
  • 1209焼失
  • 1242炎上
  • 1289焼失
  • 興国炎上
  • 1467応仁の乱で焼失
  • 1590年:豊臣秀吉の都市計画で寺町荒神口に移転。
  • 1708年:宝永の大火で焼失。現在地に移転。
  • 文化年間:現在の本堂を再建
  • 1864年:禁門の変で正門焼失。

境内

  • 本堂:
  • 鎮宅霊符神堂
  • 愛染堂:
  • 寿老神堂:
  • 延命地蔵菩薩:石仏祠
  • 天道大日如来:石仏祠
  • 石仏祠:
  • 石仏祠:
  • 宝篋印塔:
  • 加茂明神塔:大型の石造五輪塔。現在はくり抜いた中に不動明王の石仏を祀るが新しいもの。江戸時代に鳥居が五輪塔の前にあった。
  • 百体地蔵尊:
  • 出世弁財天:
  • 寺守社:
  • 庫裡:
  • 開山堂:廃絶か

資料

  • 『一条革堂縁起』:1669年。妙法院宮堯恕法親王筆。
  • 瀧善成1937「平安中期後に現れた聖運動の一考察ー行願寺の教会史的研究を中心として」『大正大学々報』26
  • 猪川和子1974「京都革堂行願寺千手観音立像」[1]
  • 篠原昭二1976「清水寺と革堂ー貴賎の交叉点」『國文學』21-7
  • 足立祐子2004「『蜻蛉日記』の作者の屋敷の位置」[2]
  • 中前正志2009「革堂縁起の中の賀茂社縁起と行円伝」『神道史研究』57-2
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%A1%8C%E9%A1%98%E5%AF%BA」より作成

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