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覚明旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | '''覚明'''は1785年(天明5年)に御嶽山を開山した。百日精進を改革し、一般信者でも軽精進で登拝できるようにした。この業績から御嶽山中興の祖とされる。いずれの御嶽講においても必ず祀られ、数多い霊神の筆頭の存在である。しかし、その伝記については伝説的なエピソードで飾られ、明らかでない点が多い。御嶽山第二の開祖の[[普寛]]と比較しても、その生涯はあいまいな点が目立っている。以下、伝承と史料による覚明の足跡を辿る。 | ||
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+ | ===開山以前=== | ||
+ | 覚明は、1718年(享保3年)3月3日に、尾張国春日井郡牛山村にて、丹羽清兵衛(清左衛門とも)と千代の子として生まれた。幼名を源助といい(『西筑摩郡誌』)、のち仁右衛門(にえもん)と称した。家が貧しいため、土器野村の農家の養子となった。 | ||
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+ | 同時代の小田切春江による記録によると、医師井上竜正の箱持ちをしていたが、繁盛していなかった<ref>小田切春江 1818年(文政1年)「聚聞雑書」(『連城亭随筆』所収)</ref>。のち土器野新田の阿弥陀堂([[浄土真宗]]光寿山阿弥陀寺)前に[[覚明居住地跡|借家]]を持ち、お梅という女性と結婚し、餅屋をやっていた。しかし、蓄財していた阿弥陀堂僧侶の死に関わっていたのではないかという噂がたって、お梅を置いて、その地を去ったという<ref>以上、「聚聞雑書」</ref>。餅屋ではなく、肴の行商をしていた、八百屋をしていた<ref>『村誌王滝』1629</ref>という説もある。 | ||
+ | また壮年期になって枇杷島の[[清音寺]]の法周に入門し、道生と称したという<ref>『村誌王滝』1628ではこれを1729年(享保14年)12歳のときのことだとしている。</ref>。1741年(寛保1年)、五条川畔の弘法堂の住持となったという。1752年(宝暦2年)には冤罪を着せられたのを機に、第一回の巡礼に赴いたという<ref>『春日井郡誌』。『村誌王滝』1628では1754年(宝暦4年)に初めて四国巡礼に赴いたとされる。</ref>。 | ||
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+ | ===白川権現の託宣と恵那山の開山=== | ||
+ | その後、1758年(宝暦8年)、1759年(宝暦9年)、1761年(宝暦11年)、1763年(宝暦13年)、1764年(明和1年)、1766年(明和3年)とたびたび巡拝修行を行った。そして伝説によると、最後の7回目の巡拝修行の1766年(明和3年)4月18日、[[四国霊場八十八所]]の第38番札所である[[金剛福寺]]にて修行中に白川権現が降臨し、御嶽山開山を命じられたという。 | ||
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+ | 白川権現から御嶽山開山の命を受けた覚明は、清音寺、土器野新田、牛山村などの縁の地を経て、中山道を木曽に向かった。木曽路の入口となるあたりには故郷を振り返ったとされる「[[覚明塚]]」がある。 | ||
+ | 1767年(明和4年)中には、[[恵那山]]を開山した。このとき山上で十七日(七日)の断食行を行ったという。 | ||
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+ | ===御嶽開山=== | ||
+ | 従来、御嶽山に登る者は、百日間の精進が求められていた。4月8日から百日間、白衣を着て、食事道具を新たにし、別火(他の家族とは別の火を用いた料理を食べること)となる。潔斎中は男女同衾を禁じ、五辛と魚鳥を食すことが禁じられた。精進期間中、[[御嶽山三十八座]]巡拝などの修行を経て、ようやく6月14日に至って二日間かけて御嶽山に登拝していた。 | ||
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+ | 百日精進から軽精進へ | ||
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+ | 1782年(天明2年)、武居家に請願。軽精進による一般信者の登拝許可を願う。 | ||
+ | 神威を汚す。巣山・留山(森林資源の維持を目的とした立入禁止の山林) | ||
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+ | 1784年(天明4年)に御嶽山に来る。黒沢村武居家を訪れて、登山の許可を願ったが認められなかった<ref>王滝村滝家『神社留記』</ref>。 | ||
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+ | 1785年(天明5年)6月4日に許可を得ずに8人で登山 | ||
+ | ついで6月14日、30人あまりで登山 | ||
+ | 28日には80人ほどで登山 | ||
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+ | ただちに武居家は代官所に訴え | ||
+ | 代官所は無許可で登拝した百数十名を三日間の宿預けとし | ||
+ | さらに協力した宿の提供者を七日間の宿預けとした | ||
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+ | 特に覚明は21日間の謹慎を命じられた | ||
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+ | しかし、翌年にも登拝を強行 | ||
+ | 登山道の改修を試みた | ||
+ | これには黒沢村のものたちも協力した | ||
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+ | ===修行伝承=== | ||
+ | 1782年(天明2年)に覚明が御嶽山にやってきてから、1785年(天明5年)に御嶽山登拝を実行するまでの間、御嶽山周辺の村々で巡教したり、修行したりしたことが伝承として伝わっている。そのようにして地元の人々と交流しながら、開山の機会を見計らっていたと思われる。 | ||
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+ | 巡教活動としては、開田村の西野、末川では、覚明が赤松を生えているのを見て稲作の可能を説き、開田を勧めたと言われている。また御嶽山をはさんで反対側にある現・下呂市宮地には覚明の書跡および袈裟とされるものが伝わっており<ref>下呂市指定文化財「覚明行者の書跡」「覚明行者の袈裟」</ref>、覚明が訪れて教化活動をしたことが伺われる。王滝村では、のちに'''覚明膏'''と呼ばれる油薬の製法を伝授したという。 | ||
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+ | 一方、修行伝承としては、福島宿には代官山村家の東北に[[願行寺]]という鬼門守護の天台宗寺院があったが、覚明はこの願行寺住職の覚円に師事して、修行したという伝承がある。また福島宿の南方にある野尻村では、古瀬屋というところに宿泊し、山中にある'''古宮の滝'''で修行をしていたという。開田村の[[尾ノ島の滝]]で修行したことも伝わっている。 | ||
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+ | また下呂市小坂の伝承には、覚明は、黒沢口開山のあと飛騨側からの登山道開山を志し、東濃路を迂回して小坂郷落合村を訪れ、吉蔵というものの家を宿とした。そして落合村の小右衛門を案内人として御嶽山に向かい、御嶽山小坂口を開山したという。この開山のときに発見した湧水が'''覚明水'''と呼ばれて現存している。ただこの小坂の伝承では小坂口開山を1791年(寛政3年)のことだとするが、この年には既に覚明は死去していたはずである。 | ||
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+ | ===入定とその死後=== | ||
+ | 覚明は登山道改修の竣工も軽精進登拝解禁も見届けることなく、二回目の登拝をした1786年(天明6年)の6月20日に御嶽山上の[[二ノ池]]の[[覚明入定地|ほとり]]で入定したという<ref>大泉寺供養塔によると、6月23日死去。</ref>。遺骸はしばらく、この地にとどめ置かれたが、のち九合目に改葬された。これが現在の黒沢口九合目の[[覚明堂]]である。あるいは登山道にある[[黒沢開山堂|開山堂]]に分骨が納められたともいう。 | ||
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+ | 覚明の入定については、いくつかの伝承がある。覚明が登山してから半年たったのに下山してこなかったから藪原のものが怪しんで登山したところ、二ノ池で遺骸を発見し、覚明堂の地に埋葬したという伝えがある。あるいは、覚明ののち、普寛が登山するまで誰も知らず、立往生の姿で残っていたといい、普寛が発見して九字を切ったところ、ようやく倒れたという伝えもある<ref>『村誌王滝』1628-1629</ref>。 | ||
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+ | 覚明の死後、縁のあるところに、供養塔や霊社が建立された。まず生家丹羽家の菩提寺である[[麟慶寺]]には墓碑が建立された。また1838年(天保9年)、黒沢麓講により、覚明供養塔が[[大泉寺]]に建立された。これは最古の覚明供養塔である。山内では1859年(安政6年)には黒沢麓講により、[[護摩堂原霊神場|赤岩巣]]に建立された「御嶽山勢至覚明大菩薩」碑が最古である。天保以後、近隣でも覚明碑が建てられるようになり、岩郷、末川、把之沢、西野、上松の西小川、大桑の野尻、岐阜県日和田などに十数基確認されている。ほとんどは「覚明大菩薩」碑であるが、1843年(天保14年)には「覚明神霊」碑が建てられ、1845年(弘化2年)7月には「大阿闍梨覚明霊神」像が建てられている。1845年(弘化2年)のものは木曽御嶽信仰における「霊神」の初例とされる。 | ||
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+ | 1850年(嘉永3年)7月、[[輪王寺宮門跡]]より菩薩号を贈られた | ||
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+ | 明治になり、[[神道本局]]神道御嶽本教会は、大教正を贈った<ref>村誌王滝1627</ref>。 | ||
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+ | ==参考文献== | ||
+ | [[木曽御嶽信仰#参考文献]]を参照。 | ||
+ | ==脚注== | ||
+ | <references/> |
2011年10月23日 (日) 時点における版
覚明旧跡 |
目次 |
生涯
覚明は1785年(天明5年)に御嶽山を開山した。百日精進を改革し、一般信者でも軽精進で登拝できるようにした。この業績から御嶽山中興の祖とされる。いずれの御嶽講においても必ず祀られ、数多い霊神の筆頭の存在である。しかし、その伝記については伝説的なエピソードで飾られ、明らかでない点が多い。御嶽山第二の開祖の普寛と比較しても、その生涯はあいまいな点が目立っている。以下、伝承と史料による覚明の足跡を辿る。
開山以前
覚明は、1718年(享保3年)3月3日に、尾張国春日井郡牛山村にて、丹羽清兵衛(清左衛門とも)と千代の子として生まれた。幼名を源助といい(『西筑摩郡誌』)、のち仁右衛門(にえもん)と称した。家が貧しいため、土器野村の農家の養子となった。
同時代の小田切春江による記録によると、医師井上竜正の箱持ちをしていたが、繁盛していなかった[1]。のち土器野新田の阿弥陀堂(浄土真宗光寿山阿弥陀寺)前に借家を持ち、お梅という女性と結婚し、餅屋をやっていた。しかし、蓄財していた阿弥陀堂僧侶の死に関わっていたのではないかという噂がたって、お梅を置いて、その地を去ったという[2]。餅屋ではなく、肴の行商をしていた、八百屋をしていた[3]という説もある。 また壮年期になって枇杷島の清音寺の法周に入門し、道生と称したという[4]。1741年(寛保1年)、五条川畔の弘法堂の住持となったという。1752年(宝暦2年)には冤罪を着せられたのを機に、第一回の巡礼に赴いたという[5]。
白川権現の託宣と恵那山の開山
その後、1758年(宝暦8年)、1759年(宝暦9年)、1761年(宝暦11年)、1763年(宝暦13年)、1764年(明和1年)、1766年(明和3年)とたびたび巡拝修行を行った。そして伝説によると、最後の7回目の巡拝修行の1766年(明和3年)4月18日、四国霊場八十八所の第38番札所である金剛福寺にて修行中に白川権現が降臨し、御嶽山開山を命じられたという。
白川権現から御嶽山開山の命を受けた覚明は、清音寺、土器野新田、牛山村などの縁の地を経て、中山道を木曽に向かった。木曽路の入口となるあたりには故郷を振り返ったとされる「覚明塚」がある。 1767年(明和4年)中には、恵那山を開山した。このとき山上で十七日(七日)の断食行を行ったという。
御嶽開山
従来、御嶽山に登る者は、百日間の精進が求められていた。4月8日から百日間、白衣を着て、食事道具を新たにし、別火(他の家族とは別の火を用いた料理を食べること)となる。潔斎中は男女同衾を禁じ、五辛と魚鳥を食すことが禁じられた。精進期間中、御嶽山三十八座巡拝などの修行を経て、ようやく6月14日に至って二日間かけて御嶽山に登拝していた。
修行伝承
1782年(天明2年)に覚明が御嶽山にやってきてから、1785年(天明5年)に御嶽山登拝を実行するまでの間、御嶽山周辺の村々で巡教したり、修行したりしたことが伝承として伝わっている。そのようにして地元の人々と交流しながら、開山の機会を見計らっていたと思われる。
巡教活動としては、開田村の西野、末川では、覚明が赤松を生えているのを見て稲作の可能を説き、開田を勧めたと言われている。また御嶽山をはさんで反対側にある現・下呂市宮地には覚明の書跡および袈裟とされるものが伝わっており[6]、覚明が訪れて教化活動をしたことが伺われる。王滝村では、のちに覚明膏と呼ばれる油薬の製法を伝授したという。
一方、修行伝承としては、福島宿には代官山村家の東北に願行寺という鬼門守護の天台宗寺院があったが、覚明はこの願行寺住職の覚円に師事して、修行したという伝承がある。また福島宿の南方にある野尻村では、古瀬屋というところに宿泊し、山中にある古宮の滝で修行をしていたという。開田村の尾ノ島の滝で修行したことも伝わっている。
また下呂市小坂の伝承には、覚明は、黒沢口開山のあと飛騨側からの登山道開山を志し、東濃路を迂回して小坂郷落合村を訪れ、吉蔵というものの家を宿とした。そして落合村の小右衛門を案内人として御嶽山に向かい、御嶽山小坂口を開山したという。この開山のときに発見した湧水が覚明水と呼ばれて現存している。ただこの小坂の伝承では小坂口開山を1791年(寛政3年)のことだとするが、この年には既に覚明は死去していたはずである。
入定とその死後
覚明は登山道改修の竣工も軽精進登拝解禁も見届けることなく、二回目の登拝をした1786年(天明6年)の6月20日に御嶽山上の二ノ池のほとりで入定したという[7]。遺骸はしばらく、この地にとどめ置かれたが、のち九合目に改葬された。これが現在の黒沢口九合目の覚明堂である。あるいは登山道にある開山堂に分骨が納められたともいう。
覚明の入定については、いくつかの伝承がある。覚明が登山してから半年たったのに下山してこなかったから藪原のものが怪しんで登山したところ、二ノ池で遺骸を発見し、覚明堂の地に埋葬したという伝えがある。あるいは、覚明ののち、普寛が登山するまで誰も知らず、立往生の姿で残っていたといい、普寛が発見して九字を切ったところ、ようやく倒れたという伝えもある[8]。
覚明の死後、縁のあるところに、供養塔や霊社が建立された。まず生家丹羽家の菩提寺である麟慶寺には墓碑が建立された。また1838年(天保9年)、黒沢麓講により、覚明供養塔が大泉寺に建立された。これは最古の覚明供養塔である。山内では1859年(安政6年)には黒沢麓講により、赤岩巣に建立された「御嶽山勢至覚明大菩薩」碑が最古である。天保以後、近隣でも覚明碑が建てられるようになり、岩郷、末川、把之沢、西野、上松の西小川、大桑の野尻、岐阜県日和田などに十数基確認されている。ほとんどは「覚明大菩薩」碑であるが、1843年(天保14年)には「覚明神霊」碑が建てられ、1845年(弘化2年)7月には「大阿闍梨覚明霊神」像が建てられている。1845年(弘化2年)のものは木曽御嶽信仰における「霊神」の初例とされる。
1850年(嘉永3年)7月、輪王寺宮門跡より菩薩号を贈られた
明治になり、神道本局神道御嶽本教会は、大教正を贈った[9]。
名称 | 所在地 | コメント |
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牛山覚明堂 | 愛知県春日井市牛山町431 | 覚明誕生地にある覚明を祀った堂。牛山天神社の隣接地。「覚明誕生地」と書かれた石碑と産湯の井戸、覚明霊神の祠がある。1930年(昭和5年)、産湯の井戸の傍らに覚明堂を創建。1953年(昭和28年)、現在地に移築、遷座が計画されたが、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風により倒壊。1970年(昭和45年)、仮堂建立。1981年(昭和56年)9月27日、現在の堂を造営した。(「修復整備記念」碑)誕生講の拠点だったが、講社は途絶した。春日井市指定史跡「覚明霊神誕生地」。 |
覚明山(覚明居住地跡) | 愛知県清須市中河原130 | 覚明の居住地跡。木曽御嶽本教の出生講教会がある。「覚明山」と称す。敷地内には覚明を祀る築山があるといい、また井戸が残っているという(『新川町誌』p1233、p1229、『西春日井郡誌』p525)。ここが生誕地だという説もあるらしい(境内標石)。 |
覚明居住地跡(土器野新田) | 愛知県清須市土器野343-1あたり | 覚明の居住地跡。覚明は、米屋伊助方に米搗きに務めていたころ、土器野新田の阿弥陀堂(光寿山阿弥陀寺)の門前に住んでいたという。現在、阿弥陀寺の駐車場となっている。井戸跡があるという。(『新川町誌』1233頁、『御岳とともに 覚明霊神御一代記』53頁) |
清音寺 | 愛知県名古屋市西区枇杷島3丁目10-6 | 覚明が得度したとされる寺院。覚明は壮年になって枇杷島にある清音寺の法周に師事して四年間修行したという(『木曽のおんたけさん』27頁)。「覚明行者剃髪道場旧跡」という石碑がある。 |
弘法堂 | (不詳) | 覚明が住した堂。弘法大師を祀ったものと思われる。五条川近くにあったという。1741年(寛保1年)に覚明はこの弘法堂の住持となったという(『木曽のおんたけさん』27頁)。 |
金剛福寺 | 高知県土佐清水市足摺岬214-1 | 四国八十八箇所霊場の第38番札所寺院。覚明は、1766年(明和3年)の7回目の巡礼のとき、この金剛福寺にて白川大神から御嶽山開山の神託を受けたという(『木曽のおんたけさん』27-28)。金剛福寺には白皇権現(現在は白山神社に合祀)が祀られていたが、関係あるのだろうか。 |
覚明塚 | 愛知県春日井市桃山町 | 御嶽山を開山するために木曽へ赴く途中、故郷の牛山を振り返ったと伝える場所に築かれた塚。1930年(昭和5年)に建立。1952年(昭和27年)設立の覚生講(のち廃絶)の拠点となっていた。覚生講の霊神碑や覚明霊神150年記念祭の石碑などがあるという。(『郷土誌かすがい』第49号 ホームページ版) |
恵那山 | 岐阜県中津川市中津川 | 恵那山。御嶽山開山に赴く途中、中津川に滞在し、1767年(明和4年)に恵那山を開山。頂上で、断食行を行ったという(『木曽のおんたけさん』28)。心明霊神碑があるが、木曽御嶽信仰を示す遺物はあまりないようである。 |
覚明神社 | 岐阜県中津川市子野 | 覚明を祀った神社。覚明が中津川に滞在していたときに泊まった槙坂茶屋(佐次兵衛)の跡地。覚明の死後、佐次兵衛が祀ったという。(『恵那神社誌』附録町村誌34ページ) |
朝日山覚明教会 | 岐阜県中津川市東宮町8-19 | 中津川の御嶽講。覚明が中津川に滞在していたときに泊まった槙坂茶屋にお礼として残したチンチン石がご神体として祀られている。覚明の数珠、金剛杖、湯呑も所蔵しているという(『木曽のおんたけさん』28)。 |
願行寺 | 長野県木曽郡木曽町 | 代官山村家の鬼門除けの寺院。天台宗。覚明は願行寺の覚円に一時、師事したという。『御嶽の歴史』192 |
尾ノ島の滝 | 長野県木曽郡木曽町開田 | 覚明が修行したとされる滝場。不動尊が祀られているというが不詳。覚明系御嶽講を興隆させた空明(八海山入道岳開山でもある)はここの洞窟で修行したという。また空明の霊神碑が付近の中部電力キャンプ場跡地にあるという。木曽町指定史跡「尾の島の滝」。(『三岳村誌』661・832頁、千村稔2010「ふるさとを訪ねて55 尾ノ島の滝石造物」『広報きそまち』56) |
古宮の滝 | 長野県木曽郡大桑村野尻 | 野尻にある滝場。覚明が修行したという伝承がある。野尻には安産講という講社がかつてあった。(『御嶽の歴史』169頁、『三岳村誌』663頁) |
覚明水 | 岐阜県下呂市小坂町 | 小坂口にある覚明が発見したという湧水。1916年(大正5年)『岐阜県益田郡誌』には記載はない。 |
覚明社(覚明行場跡) | 長野県木曽郡木曽町三岳 七合目 | 覚明が修行した行場跡にある神社。戦前から覚明像は祀られていたようだが(古写真)、社殿が建立されたのはおそらく戦後のことだと思われる。 |
二ノ池覚明入定地 | 長野県木曽郡木曽町三岳 頂上 | 覚明が入定した旧跡。二回目の登拝のとき、1786年(天明6年)6月20日(7月23日とも、6月23日)に頂上二ノ池にて入定。立ったままの姿で往生したという。遺骸はしばらく二ノ池湖畔に奉安されていたが、のち二ノ池より九合目の岩場に埋葬された(「覚明堂」を参照)。一説によると、登山後半年経って下山しないので村の者が観に行くと亡くなっていたとか、また普寛が登山したときに初めて遺骸が発見されたとかいう伝承もある(『村誌王滝』1629)。 |
覚明堂(覚明墓所) | 長野県木曽郡木曽町三岳 九合目 | 覚明の墓所。覚明の死後、遺骸はしばらく二ノ池湖畔に奉安されていたが、のち二ノ池より九合目の岩場に埋葬。のち覚明堂が創建される。 |
金牛山麟慶寺 | 愛知県春日井市牛山町322 | 覚明の生家丹羽家の菩提寺。臨済宗妙心寺派。本尊は大日如来(愛知県指定文化財)。1596年(慶長1年)の創建とされる。覚明死後、麟慶寺に墓碑が建立される。 |
大泉寺 | 長野県木曽郡木曽町三岳6353 | |
下ノ原覚明祠 | 長野県木曽郡木曽町開田高原西野下の原 | 西野地区にある覚明を祀った祠。「覚明堂」バス停そば。霊場がある。木曽町有形文化財「下の原覚明祠並に平次郎地蔵と石仏群」。 |
野尻覚明堂 | 長野県木曽郡大桑村野尻 | 野尻にある覚明を祀った堂。野尻安産講の霊神場にある。1864年(元治1年)9月の覚明大菩薩碑がある。『三岳村誌』664 |
黒沢三合目 開山堂 | 長野県木曽郡木曽町三岳 | |
黒沢御嶽神社 覚明社 | 長野県木曽郡木曽町三岳 | |
黒沢集落 覚明社 | 長野県木曽郡木曽町三岳 | |
王滝 講祖本社 | 長野県木曽郡王滝村 |
参考文献
木曽御嶽信仰#参考文献を参照。