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豊田山墓地
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年12月11日 (日)
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- | + | '''豊田山墓地'''(とよだやま・ぼち)は奈良県天理市豊田町にある[[天理教]]開祖[[中山みき]]の墓を中心とする天理教の墓地。「天理教教祖墓地」「お墓地」ともいう。 | |
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天理教教祖中山みきは1887年(明治20年)の旧暦1月26日に出直した。葬儀や遺体の処遇について諸説紛糾したという。 | 天理教教祖中山みきは1887年(明治20年)の旧暦1月26日に出直した。葬儀や遺体の処遇について諸説紛糾したという。 | ||
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1892年(明治25年)、土地を購入し、6月に墓地設置許可を得て、7月に着工。ひのきしんにより12月初旬に竣工した。旧暦10月25日にあたる12月13日、十数万人の参列のもと改葬を行ったという。 | 1892年(明治25年)、土地を購入し、6月に墓地設置許可を得て、7月に着工。ひのきしんにより12月初旬に竣工した。旧暦10月25日にあたる12月13日、十数万人の参列のもと改葬を行ったという。 | ||
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中山みきの神号を「'''真道弥広言知女命'''(まみちいやひろことしりめのみこと)」という。教団が非公認だった当時、葬儀を教団が行うことは認められなかったため、守屋神社([[村屋坐弥富都比売神社]])祠官の守屋秀雄を斎主として葬儀を執行。このときに守屋秀雄が名付け、墓標に刻まれた。 | 中山みきの神号を「'''真道弥広言知女命'''(まみちいやひろことしりめのみこと)」という。教団が非公認だった当時、葬儀を教団が行うことは認められなかったため、守屋神社([[村屋坐弥富都比売神社]])祠官の守屋秀雄を斎主として葬儀を執行。このときに守屋秀雄が名付け、墓標に刻まれた。 | ||
そして1892年(明治25年)の改葬のときに、神戸の御影山から兵神分教会部内の手によって運ばれた御影石に刻まれて、墓標とされた。この神号は1926年(昭和1年)の教祖40年祭のときまで祝詞で使われていたが、大正時代から昭和初期の「復元」<ref>時局に合わせて改変を余儀なくされていた教義を本来の教祖の教えに立ち戻らせること</ref>の動きを受けてか、1936年(昭和11年)の教祖50年祭以降は用いられなくなった。墓標は墓前の目立つ位置に建てられていたが、1975年(昭和50年)の教祖90年祭のときに垣の奥に移設された。しかしながら、墓標の撤去はされていないところにアンビバレンツな思いが伺われる。 | そして1892年(明治25年)の改葬のときに、神戸の御影山から兵神分教会部内の手によって運ばれた御影石に刻まれて、墓標とされた。この神号は1926年(昭和1年)の教祖40年祭のときまで祝詞で使われていたが、大正時代から昭和初期の「復元」<ref>時局に合わせて改変を余儀なくされていた教義を本来の教祖の教えに立ち戻らせること</ref>の動きを受けてか、1936年(昭和11年)の教祖50年祭以降は用いられなくなった。墓標は墓前の目立つ位置に建てられていたが、1975年(昭和50年)の教祖90年祭のときに垣の奥に移設された。しかしながら、墓標の撤去はされていないところにアンビバレンツな思いが伺われる。 | ||
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一帯に教会関係者や信者の墓地がある。神道式の、簡素な石柱の墓石を踏襲している。 | 一帯に教会関係者や信者の墓地がある。神道式の、簡素な石柱の墓石を踏襲している。 | ||
'''豊田山舎'''(とよださんしゃ)という大型納骨堂もある。 | '''豊田山舎'''(とよださんしゃ)という大型納骨堂もある。 | ||
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+ | File:中山みき墓・1929年(昭和4年)天理教綱要昭和4年版.jpg| | ||
+ | File:中山みき墓・1932年(昭和7年)天理教綱要英文版.jpg| | ||
+ | ファイル:tenri_kyoso_003.JPG|垣の奥に建つ現在の墓標 | ||
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2022年12月11日 (日) 時点における最新版
豊田山墓地(とよだやま・ぼち)は奈良県天理市豊田町にある天理教開祖中山みきの墓を中心とする天理教の墓地。「天理教教祖墓地」「お墓地」ともいう。
天理教教祖中山みきは1887年(明治20年)の旧暦1月26日に出直した。葬儀や遺体の処遇について諸説紛糾したという。 「魂は屋敷にとどまり、体は捨てた衣服のようなもの」との「おさしづ」があったが、中山眞之亮は「ただの衣服ではない。粗末にできない」として改葬を期して、中山家の菩提寺であった天理・善福寺の墓地に葬ったという。2月23日に葬儀を行った。 1892年(明治25年)、土地を購入し、6月に墓地設置許可を得て、7月に着工。ひのきしんにより12月初旬に竣工した。旧暦10月25日にあたる12月13日、十数万人の参列のもと改葬を行ったという。
中山みきの神号を「真道弥広言知女命(まみちいやひろことしりめのみこと)」という。教団が非公認だった当時、葬儀を教団が行うことは認められなかったため、守屋神社(村屋坐弥富都比売神社)祠官の守屋秀雄を斎主として葬儀を執行。このときに守屋秀雄が名付け、墓標に刻まれた。 そして1892年(明治25年)の改葬のときに、神戸の御影山から兵神分教会部内の手によって運ばれた御影石に刻まれて、墓標とされた。この神号は1926年(昭和1年)の教祖40年祭のときまで祝詞で使われていたが、大正時代から昭和初期の「復元」[1]の動きを受けてか、1936年(昭和11年)の教祖50年祭以降は用いられなくなった。墓標は墓前の目立つ位置に建てられていたが、1975年(昭和50年)の教祖90年祭のときに垣の奥に移設された。しかしながら、墓標の撤去はされていないところにアンビバレンツな思いが伺われる。
一帯に教会関係者や信者の墓地がある。神道式の、簡素な石柱の墓石を踏襲している。 豊田山舎(とよださんしゃ)という大型納骨堂もある。
参考文献
- 『天理教事典』
脚注
- ↑ 時局に合わせて改変を余儀なくされていた教義を本来の教祖の教えに立ち戻らせること