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越後・新善光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
越後・新善光寺
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'''新善光寺'''(しんぜんこうじ)は、新潟県東蒲原郡阿賀町津川にある、下越地方・会津地方における[[浄土宗]][[鎮西派]][[藤田流]](廃絶)の拠点だった[[善光寺信仰]]寺院。越後国蒲原郡。[[善光寺]]聖(ひじり)の[[定尊]]が創建したが、藤田流の'''感誓'''や'''岌天'''(きゅうてん)が再興。京都[[知恩寺]]30世の'''岌州'''(ぎゅうしゅう)の出身寺院でもある。現在は[[浄土宗知恩院派]]。「'''津川新善光寺'''」「'''仏光山称応院新善光寺'''」。 伝説的な善光寺聖として知られる[[甚目寺]]'''定尊'''が善光寺如来を祭り、建久元年(1190)に創建したとされる(ウェブサイト。浄土宗全書にも建久年間とある)。当初は現在地から5km西の小川庄西村の地(現・阿賀町西)にあったという。越後は信濃[[善光寺]]に近いことから善光寺信仰が盛んであった。 藤田流の実質的な本山であった下総[[高声寺]]4世唱名の弟子'''感誓'''が、貞治元年(1362)に中興し、浄土宗藤田流の寺院とした。感誓は'''感生'''とも書き、諱を'''道教'''という(浄土宗全書)。 5世'''梅岌'''のときに「伽藍完備」(浄土宗全書)したというがその後、戦乱で荒廃。高声寺8世岌伝(きゅうでん)の弟子'''岌天'''(きゅうてん)が会津黒川(現・会津若松)に[[高巌寺]]を創建後、蘆名氏内乱を避けるために永正年間(1504-1520)末に当寺に移り、再興した。津川は蘆名氏の領地で、津川は「会津津川」(浄土宗全書)と呼ばれるほど会津の影響が強かった。 岌天以降、会津高巌寺とともに会津・下越地方における藤田流の中心寺院となった。 岌天の弟子'''岌州'''(ぎゅうしゅう)は当寺を継承したあと、京都[[知恩寺]]30世となった。岌州は、近衛前久や上杉謙信とも関わり、京都や関東で行動を共にしたことは史料上明らかとされる。岌州が出家した正徳寺(会津坂下町(ばんげまち)青木)には彼の遺品(町指定重要文化財)が残されている。 ==参考文献== *新善光寺ウェブサイト *藤本顕通「藤田派の教線域と名越派の交渉」 *渡部伸一「会津地方の藤田派の動静について」 *『浄土宗全書』 [[category:新潟県]]
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