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越後・来迎寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月13日 (土)

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(?歴代住職)
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'''来迎寺'''(らいごうじ)は、新潟県十日町市にある[[時宗]]寺院。元は[[時宗の本山寺院|時宗の准檀林]]。新潟県十日町市川原町823甲。(参考:同名寺院[[来迎寺]])
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'''来迎寺'''(らいごうじ)は、新潟県十日町市川原町(越後国魚沼郡)にある[[時宗]]寺院。元は[[時宗の本山寺院|時宗の准檀林]]。引接院と号す。山号は放光山。'''小森沢来迎寺'''、'''中条来迎寺'''、'''十日町来迎寺'''、'''妻有来迎寺'''。(参考:同名寺院[[来迎寺]])
==歴史==
==歴史==
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*1288年(正応1年)8月:一遍が中条村団子島(新潟県十日町市中条)に創建。田川山聖衆院来迎寺と称す。長尾家が帰依した。原村(新潟県十日町市高山?)に移転。(中魚沼郡風土志)
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*1288年(正応1年)8月:[[一遍]]が中条村団子島(新潟県十日町市中条)に創建。田川山聖衆院来迎寺と称す。長尾家が帰依した。原村(新潟県十日町市高山?)に移転。(中魚沼郡風土志)
*1491年(延徳3年):守護上杉房定が松龍軒という僧侶を来迎寺住職に任命(長尾能景遵行状)。この時点では「美佐島郷」(新潟県南魚沼市美佐島か。)にあった。
*1491年(延徳3年):守護上杉房定が松龍軒という僧侶を来迎寺住職に任命(長尾能景遵行状)。この時点では「美佐島郷」(新潟県南魚沼市美佐島か。)にあった。
*1658年(万治1年):13世長玄が現在の河原町に移転。放光山引接院来迎寺と称す。(中魚沼郡風土志では1839年(天保10年)のことで36世長玄とする)
*1658年(万治1年):13世長玄が現在の河原町に移転。放光山引接院来迎寺と称す。(中魚沼郡風土志では1839年(天保10年)のことで36世長玄とする)
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*1682年(天和2年):10石8斗を除地とされた。(中魚沼郡風土志では1682年(天和2年)とする)
*1682年(天和2年):10石8斗を除地とされた。(中魚沼郡風土志では1682年(天和2年)とする)
*1740年(元文5年)6月21日:19世覚阿泰元が梵鐘を鋳造
*1740年(元文5年)6月21日:19世覚阿泰元が梵鐘を鋳造
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*1782年(天明2年)6月23日:巡教中の善光寺大勧進79世慈薫が来迎寺で病み客死した[https://dl.ndl.go.jp/pid/6070118/1/3][https://dl.ndl.go.jp/pid/2209381/1/90]。
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*1782年(天明2年)6月23日:巡教中の[[善光寺大勧進]]79世慈薫が来迎寺で病み客死した[https://dl.ndl.go.jp/pid/6070118/1/3][https://dl.ndl.go.jp/pid/2209381/1/90]。
*1862年(文久2年):現在の本堂などを再建
*1862年(文久2年):現在の本堂などを再建
*1897年(明治30年)10月:原村の「来迎寺屋鋪」の堂宇にあった阿弥陀仏が奉納された。(中魚沼郡風土志)
*1897年(明治30年)10月:原村の「来迎寺屋鋪」の堂宇にあった阿弥陀仏が奉納された。(中魚沼郡風土志)
*2012年(平成24年):本堂修復
*2012年(平成24年):本堂修復
(ウェブサイト、日本歴史地名大系、中魚沼郡風土志[https://dl.ndl.go.jp/pid/9537695/1/77])
(ウェブサイト、日本歴史地名大系、中魚沼郡風土志[https://dl.ndl.go.jp/pid/9537695/1/77])
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==境内==
==境内==
*本堂
*本堂
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==組織==
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===歴代住職===
===歴代住職===
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*13長玄()<>:
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*19覚阿泰元()<>:1740年(元文5年)6月21日の梵鐘銘文がある[https://dl.ndl.go.jp/pid/3008965/1/177]。
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*20白典()<>:1769年(明和6年)伽藍再建[https://kojyosikyo.main.jp/Tookamati-C/Jonokosi-Jo/Jonokosi-Jo.htm]
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*22(不詳)()<>:1787年(天明7年)在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/128]
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*23其阿白法()<>:1792年(寛政4年)8月在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/123]。
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*28泉徹(生没年不詳)<不詳>:1854年(安政1年)在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。1870年(明治3年)6月24日在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424045/1/86]。
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*30河野察龍(1825-1906)<1888-1890>:其阿。遊行上人62世。藤沢上人45世。他阿尊龍。1879年(明治12年)から1889年(明治22年)まで来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/80](1888年(明治21年)から1890年(明治23年)までとも[https://dl.ndl.go.jp/pid/4413841/1/18])。30代と称す[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。
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!style="width:65%;"|略歴
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*31稲葉覚道(1833-1911)<1890-1904>:遊行上人63世。藤沢上人46世。他阿尊純。1890年(明治23年)10月から1904年(明治37年)5月まで来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/2992407/1/321][https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/83]。
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*32菊池快住()<1904->:鶴岡長泉寺住職。1904年(明治37年)就任か[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/82]。のち正法寺住職。
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*33河野礼道()<>:福井県出身。堀内家。[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/76]。1891年(明治24年)4月、山形光明寺49世[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/77][https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/88]。1913年(大正2年)頃在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。桂光院。
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|[[一遍]]
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*34河野文乗(1877-)<1924->:其阿文乗。福井県出身。河野礼道の子。1877年(明治10年)生。1909年(明治42年)早稲田大学哲学科卒。同年山形光明寺住職。時宗宗学林教師。1922年(大正11年)以前に十日町来迎寺執事[https://dl.ndl.go.jp/pid/918817/1/39]。1924年(大正13年)来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/1213936/1/314]。宗議会議長。十日町教育会長[https://dl.ndl.go.jp/pid/1186291/1/287]。34世と称す[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/124]。
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|1234-1289
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*35竹田賢随()<>:法阿賢随。[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/124]。1971年(昭和46年)時点で95歳[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/128]。
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|1288
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*36小林賢秀()<>:其阿賢秀
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*37小林賢有()<>:
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*38小林弘明()<>:
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|1618年(元和4年)10月3日死去?
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|長玄
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|1658年(万治1年)現在地に移転。1679年(延宝7年)死去。
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|興徳院。1719年(享保4年)12月17日死去?
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|覚阿泰元
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|1740年(元文5年)6月21日の梵鐘銘文がある[https://dl.ndl.go.jp/pid/3008965/1/177]。
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|白典
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|生没年不詳
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|~1769~
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|1769年(明和6年)伽藍再建[https://kojyosikyo.main.jp/Tookamati-C/Jonokosi-Jo/Jonokosi-Jo.htm]
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|其阿祐善
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|桂光院。1792年(寛政4年)10月10月死去?
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|梵阿忍了
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|其阿白法
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|生没年不詳
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|~1792~
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|1792年(寛政4年)8月在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/123]。
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|泉徹
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|1854年(安政1年)在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。1870年(明治3年)6月24日在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424045/1/86]。
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|他阿尊純。遊行上人63世。藤沢上人46世。1890年(明治23年)10月から1904年(明治37年)5月まで来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/2992407/1/321][https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/83]。
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|河野礼道
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|生没年不詳
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|不詳
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|福井県出身。俗姓は堀内。[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/76]。1891年(明治24年)4月、山形光明寺49世[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/77][https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/88]。1913年(大正2年)頃在職[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/125]。桂光院。
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|河野文乗
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|其阿文乗。福井県出身。河野礼道の子。1877年(明治10年)生。1909年(明治42年)早稲田大学哲学科卒。同年山形光明寺住職。時宗宗学林教師。1922年(大正11年)以前に十日町来迎寺執事[https://dl.ndl.go.jp/pid/918817/1/39]。1924年(大正13年)来迎寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/1213936/1/314]。宗議会議長。十日町教育会長[https://dl.ndl.go.jp/pid/1186291/1/287]。34世と称す[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/124]。
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|竹田賢随
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|1877-?
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|法阿賢随。福井県出身。1877年(明治10年)生[https://dl.ndl.go.jp/pid/1914413/1/309](1882年(明治15年)生[https://dl.ndl.go.jp/pid/2976935/1/36]は誤りか)。1889年(明治22年)時宗宗学林卒業(第3期)。1902年(明治35年)山形市遍照寺住職。1914年(大正3年)時宗教務院執事、総本山役員。宗議会議員。1915年(大正4年)11月、財団法人時宗総本山護持会理事[https://dl.ndl.go.jp/pid/2953117/1/18]。[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/124]。1971年(昭和46年)時点で95歳[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/128]。35世と記す[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/124]。
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|小林賢秀
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|生没年不詳
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|其阿賢秀。友松円諦の真理運動に参加[https://dl.ndl.go.jp/pid/2315505/1/8]。十日町市教育委員会副委員長[https://dl.ndl.go.jp/pid/1692758/1/317]。保護司。1983年(昭和58年)勲五等瑞宝章[https://dl.ndl.go.jp/pid/12285611/1/82]、この時点で70歳[https://dl.ndl.go.jp/pid/9539267/1/34]。
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|小林賢有
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|1946-2021
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|1946年(昭和21年)生。東洋大学法学部卒。2021年(令和3年)死去。75歳。著書『収と放を繰り返す宇宙と私たち』『包み文化の日本人』。
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|小林弘明
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|}
==資料==
==資料==
*「平成七年度時宗文化財調査報告・絵画・来迎寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/123]
*「平成七年度時宗文化財調査報告・絵画・来迎寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/123]
*「平成七年度時宗文化財調査報告・書跡・来迎寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/126]
*「平成七年度時宗文化財調査報告・書跡・来迎寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424055/1/126]
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+
*1987『市史リポートとおかまち3』
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*小林賢有1996「来迎寺略縁起」
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*2003『社寺史料研究5』
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*1992『十日町市史・古代中世』
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*1995『十日町市史・通史編』
[[category:新潟県]]
[[category:新潟県]]

2024年1月13日 (土) 時点における最新版

来迎寺(らいごうじ)は、新潟県十日町市川原町(越後国魚沼郡)にある時宗寺院。元は時宗の准檀林。引接院と号す。山号は放光山。小森沢来迎寺中条来迎寺十日町来迎寺妻有来迎寺。(参考:同名寺院来迎寺

目次

歴史

  • 1288年(正応1年)8月:一遍が中条村団子島(新潟県十日町市中条)に創建。田川山聖衆院来迎寺と称す。長尾家が帰依した。原村(新潟県十日町市高山?)に移転。(中魚沼郡風土志)
  • 1491年(延徳3年):守護上杉房定が松龍軒という僧侶を来迎寺住職に任命(長尾能景遵行状)。この時点では「美佐島郷」(新潟県南魚沼市美佐島か。)にあった。
  • 1658年(万治1年):13世長玄が現在の河原町に移転。放光山引接院来迎寺と称す。(中魚沼郡風土志では1839年(天保10年)のことで36世長玄とする)
  • 1679年(延宝7年):本堂再建
  • 1682年(天和2年):10石8斗を除地とされた。(中魚沼郡風土志では1682年(天和2年)とする)
  • 1740年(元文5年)6月21日:19世覚阿泰元が梵鐘を鋳造
  • 1782年(天明2年)6月23日:巡教中の善光寺大勧進79世慈薫が来迎寺で病み客死した[1][2]
  • 1862年(文久2年):現在の本堂などを再建
  • 1897年(明治30年)10月:原村の「来迎寺屋鋪」の堂宇にあった阿弥陀仏が奉納された。(中魚沼郡風土志)
  • 2012年(平成24年):本堂修復

(ウェブサイト、日本歴史地名大系、中魚沼郡風土志[3]

境内

  • 本堂
  • 鐘楼
  • 愛宕堂
  • 末社:不動明王、弁財天、稲荷大明神

組織

歴代住職

世数 生没 在職 略歴
1 一遍 1234-1289 1288
2 生没年不詳 不詳
3 生没年不詳 不詳
4 生没年不詳 不詳
5 生没年不詳 不詳
6 生没年不詳 不詳
7 生没年不詳 不詳
8 生没年不詳 不詳
9 生没年不詳 不詳
10 生没年不詳 不詳
11 生没年不詳 不詳
12 覚阿 生没年不詳 不詳 1618年(元和4年)10月3日死去?
13 長玄 生没年不詳 ~1658~ 1658年(万治1年)現在地に移転。1679年(延宝7年)死去。
14 生没年不詳 不詳
15 其阿玄茂 生没年不詳 不詳 興徳院。1719年(享保4年)12月17日死去?
16 生没年不詳 不詳
17 生没年不詳 不詳
18 生没年不詳 不詳
19 覚阿泰元 生没年不詳 ~1740~ 1740年(元文5年)6月21日の梵鐘銘文がある[4]
20 白典 生没年不詳 ~1769~ 1769年(明和6年)伽藍再建[5]
21 其阿祐善 生没年不詳 不詳 桂光院。1792年(寛政4年)10月10月死去?
22 梵阿忍了 生没年不詳 ~1787~ 等覚庵。1787年(天明7年)在職[6]。1791年(寛政3年)3月15日死去?
23 其阿白法 生没年不詳 ~1792~ 1792年(寛政4年)8月在職[7]
24 生没年不詳 不詳
25 生没年不詳 不詳
26 生没年不詳 不詳
27 生没年不詳 不詳
28 泉徹 生没年不詳 ~1854~ 1854年(安政1年)在職[8]。1870年(明治3年)6月24日在職[9]
29 生没年不詳 不詳
30 河野察龍 1825-1906 1888-1890 他阿尊龍。其阿。遊行上人62世。藤沢上人45世。1879年(明治12年)から1889年(明治22年)まで来迎寺住職[10](1888年(明治21年)から1890年(明治23年)までとも[11])。30代と称す[12]
31 稲葉覚道 1833-1911 1890-1904 他阿尊純。遊行上人63世。藤沢上人46世。1890年(明治23年)10月から1904年(明治37年)5月まで来迎寺住職[13][14]
32 菊地快住 生没年不詳 1904- 其阿。鶴岡長泉寺住職。教導職権中講義[15]。のち中講義[https://dl.ndl.go.jp/pid/4424047/1/82。1908年(明治41年)3月15日、臨時に院代に命じられる[16]。1917年(大正6年)以前に正法寺住職[17]。桂光院。
33 河野礼道 生没年不詳 不詳 福井県出身。俗姓は堀内。[18]。1891年(明治24年)4月、山形光明寺49世[19][20]。1913年(大正2年)頃在職[21]。桂光院。
34 河野文乗 1877- 1924- 其阿文乗。福井県出身。河野礼道の子。1877年(明治10年)生。1909年(明治42年)早稲田大学哲学科卒。同年山形光明寺住職。時宗宗学林教師。1922年(大正11年)以前に十日町来迎寺執事[22]。1924年(大正13年)来迎寺住職[23]。宗議会議長。十日町教育会長[24]。34世と称す[25]
35 竹田賢随 1877-? 不詳 法阿賢随。福井県出身。1877年(明治10年)生[26](1882年(明治15年)生[27]は誤りか)。1889年(明治22年)時宗宗学林卒業(第3期)。1902年(明治35年)山形市遍照寺住職。1914年(大正3年)時宗教務院執事、総本山役員。宗議会議員。1915年(大正4年)11月、財団法人時宗総本山護持会理事[28][29]。1971年(昭和46年)時点で95歳[30]。35世と記す[31]
36 小林賢秀 生没年不詳 不詳 其阿賢秀。友松円諦の真理運動に参加[32]。十日町市教育委員会副委員長[33]。保護司。1983年(昭和58年)勲五等瑞宝章[34]、この時点で70歳[35]
37 小林賢有 1946-2021 不詳 1946年(昭和21年)生。東洋大学法学部卒。2021年(令和3年)死去。75歳。著書『収と放を繰り返す宇宙と私たち』『包み文化の日本人』。
38 小林弘明

資料

  • 「平成七年度時宗文化財調査報告・絵画・来迎寺」[36]
  • 「平成七年度時宗文化財調査報告・書跡・来迎寺」[37]
  • 1987『市史リポートとおかまち3』
  • 小林賢有1996「来迎寺略縁起」
  • 2003『社寺史料研究5』
  • 1992『十日町市史・古代中世』
  • 1995『十日町市史・通史編』
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