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通玄寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年1月14日 (土)

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'''通玄寺'''(つうげんじ)は、京都の烏丸御池にあった[[臨済宗]]寺院。[[尼五山]]第五位。現在の京都府京都市中京区曇華院前町あたりにあった。
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[[ファイル:高倉宮御所跡 (1).jpg|thumb|500px|高倉宮御所跡]]
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智泉聖通が創建。応仁の乱で廃絶。足利義視(略歴は[[浄土寺#組織]]を参照)が滞在。塔頭として[[曇華院門跡]]、[[慈受院門跡]]、[[総持院門跡]]があった。元塔頭の[[曇華院]]に併合された。
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'''通玄寺'''(つうげんじ)は、京都府京都市中京区曇華院前町あたりにあった[[臨済宗]]寺院。[[尼五山]]第五位。平安時代の[[高倉宮御所]]の地にあたる。元塔頭の[[曇華院]]に併合された。山号は瑞雲山。
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山号は瑞雲山。
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==歴史==
==歴史==
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平安時代の高倉宮御所の地にあたる。
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暦応年間(1338-1342)、智泉聖通が創建。足利義視(略歴は[[浄土寺#組織]]を参照)が滞在。
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1467年(応仁1年)の応仁の乱で廃絶し、曇華院門跡に合併された。
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1467年(応仁1年)の応仁の乱で廃絶し、曇華院門跡に合併された。ただ廃絶後も名のみ存続したようだ。曇華院門跡は1871年(明治4年)に嵯峨に移転した。
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廃絶後も名のみ存続したようだ。
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==塔頭==
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曇華院門跡は1871年(明治4年)に嵯峨に移転した。
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*[[曇華院門跡]]
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*[[慈受院門跡]]
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*[[総持院門跡]]
== 組織 ==
== 組織 ==
===住職===
===住職===
[[曇華院#組織]]を参照。
[[曇華院#組織]]を参照。
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上記にはないが、[[後西天皇]]皇女で[[慈受院門跡]]の明山瑞光女王(1674-1706)も墓塔に「前住通玄」とある(『陵墓要覧』1934[https://books.google.co.jp/books?id=Y4JoXwyOhR0C])。
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上記にはないが、後西天皇皇女で慈受院門跡の明山瑞光女王(1674-1706)も墓塔に「前住通玄」とある(『陵墓要覧』1934[https://books.google.co.jp/books?id=Y4JoXwyOhR0C])。
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== 資料 ==
== 資料 ==

2023年1月14日 (土) 時点における最新版

高倉宮御所跡

通玄寺(つうげんじ)は、京都府京都市中京区曇華院前町あたりにあった臨済宗寺院。尼五山第五位。平安時代の高倉宮御所の地にあたる。元塔頭の曇華院に併合された。山号は瑞雲山。

目次

歴史

暦応年間(1338-1342)、智泉聖通が創建。足利義視(略歴は浄土寺#組織を参照)が滞在。 1467年(応仁1年)の応仁の乱で廃絶し、曇華院門跡に合併された。ただ廃絶後も名のみ存続したようだ。曇華院門跡は1871年(明治4年)に嵯峨に移転した。

塔頭

組織

住職

曇華院#組織を参照。 上記にはないが、後西天皇皇女で慈受院門跡の明山瑞光女王(1674-1706)も墓塔に「前住通玄」とある(『陵墓要覧』1934[1])。

資料

  • 『通玄寺志』[2]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%80%9A%E7%8E%84%E5%AF%BA」より作成

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