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阪堺役講
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2021年1月25日 (月) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
阪堺役講(はんかいやっこう)は大峰山寺の運営に関わる山上講8団体。
大峰山寺の戸開式と戸閉式を行う。
「秘密の役行者」像の拝観を司る。
1849年2月、井筒、鳥毛、五流、両郷が共同で山上蔵王堂の役行者像を吉野安禅寺で出開帳。特に井筒と鳥毛が中心となった。また役行者像の移送には井筒と鳥毛の他、岩、光明、三郷の老分が立ち会い、京橋も協力している。この頃には山上講の横の繋がりができており、山上蔵王堂の役行者像についての何らかの権限を持っていたとみられる。 これが後の阪堺役講の成立につながったとみられる。 大正時代には千光寺や瀧安寺の戸開式と戸閉式にも関わるようになる。 1968年から五流、岩、井筒、京橋、両郷、三郷、鳥毛、光明の順序で年番。
一覧
- 岩組:江戸堀の船大工の塩屋藤兵衛が開祖。塩屋家は加賀国大聖寺の塩屋村の出身。金沢藩の命で軍船建造のため1590年春に大阪に徴発される。大阪に移住し、船大工を家業とした。一方、児島五流の報恩院が毎年の入峰の際、航路で大阪に入り、船を塩屋藤兵衛に預けて吉野に向かっていた。この慣習は元和年間末にはあった。この縁から藤兵衛は同業の船大工や廻船問屋に呼び掛けて山上詣を行うようになった。岩万人講を結成したのが現在の岩組の発祥という。吉川源兵衛、吉川太衛門、岩増六兵衛、紀之国屋吉兵衛、利倉六兵衛、福智屋善兵衛らが基盤を固めた。特に吉川講は寛延から宝暦にかけて多数の枝講を組織化し、高島講、九条講、本田講、古田講、新堀講、海老江野田講などを擁した。講員は近江、大和、伊勢、河内、摂津、肥前平戸まで広がった。1935年には77の枝講を擁した。1985年時点では役員88人、講社65団体、講員910人がおり、参拝券52枚を割り振られた。大阪、播磨、丹波に分布。東南院、竹林院を宿坊とした。枡源を定宿とした。聖護院や金峰山寺と縁が深い。
- 光明組:1825年には存在していた。同年銘の大峰山寺正面扉の南京錠に光明とある。1985年時点で役員27人、講社10団体、講員174人、参拝券52枚だった。大阪、播磨に分布し桜本坊、竹林院を宿坊とし、定宿は西儀だった。三宝院との関係が強い。2/22に太子講を行い、髪切山慈光寺の戸開と戸閉を行った。
- 京橋組:
- 三郷組:
- 鳥毛組:
- 井筒組:
- 五流組:
- 両郷組: