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高松殿
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[ファイル:DC9D4800-544F-4AA7-8DFA-5AAE83417A64.jpeg|thumb|200px|高松神明神社の前にある「高松殿阯」碑]] '''高松殿'''は平安京の左京三条三坊三町(京都府京都市中京区津軽町付近)にあった御殿・[[里内裏]]。小一条院、白河上皇、鳥羽上皇、後白河天皇の御所。鎮守の[[高松神明神社]]が現存する。 鎮守社の高松神明神社の由緒によると[[醍醐天皇]]皇子の左大臣源高明(914-982)が臣籍降下した920年(延喜20年)に建てたという。 娘の明子([[藤原道長]]室)が継承し、高松殿と称した(栄花物語)。 さらにその娘の寛子が小一条院(准太上天皇敦明親王)の妃となったことで、1017年(寛仁1年)11月22日、小一条院の御所となった(小右記、左経記)。1021年(治安1年)4月5日焼失(日本紀略)。すぐに再建。 のち[[白河上皇]]近臣の藤原顕季の邸宅となり、 1095年(嘉保2年)10月28日に白河上皇と皇女の郁芳門院が滞在し御所とした(中右記)。 1103年(康和5年)1月に生まれた宗仁親王([[鳥羽天皇]])の祝儀はここで行われた(中右記)。 のち鳥羽上皇と美福門院の御所となった(兵範記)。 1120年(保安1年)焼失(百錬抄)。 1146年(久安2年)源師行が再建し、3月19日、[[近衛天皇]]皇后の多子が行啓(百錬抄)。 近衛天皇崩御を受けて1155年(久寿2年)7月24日、鳥羽上皇の後ろ盾で[[後白河天皇]]が高松内裏で即位(台記)。 1157年(保元2年)まで内裏とした。 1156年(保元1年)の保元の乱では後白河天皇方の拠点となり、7月10日、[[源義朝]]や[[平清盛]]らが高松内裏に集まった(兵範記、保元物語)。 1159年(平治1年)、鳥羽天皇皇女で[[二条天皇]]中宮の〓子内親王の御所となり、高松院の女院号を得た(山槐記)。 1159年(平治1年)5月29日、[[法華経]]五十講を営む。 同年8月16日に焼失(百錬抄)。 神社由緒によるとこの時の火災では[[内侍所]]が焼け残り、高松神明神社の社殿となったとされている。 (国史大辞典、日本歴史地名大系、高松神明神社由緒書ほか) [[category:京都府]]
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