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鹿児島神宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
鹿児島神宮
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[[ファイル:Kagoshima-jingu 001.jpg|500px|thumb|]] '''鹿児島神宮'''(かごしま・じんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内(大隅国桑原郡)の[[高千穂宮]]跡にある[[穂穂出見尊]]を祀る神社。[[官社]]・[[官幣大社]]・[[神社本庁]][[別表神社]]。北西10kmに穂穂出見尊の陵墓の[[高屋山上陵]]がある。[[八幡信仰]]の神社ともされ、'''大隅正八幡宮'''、'''大隅八幡宮'''、'''国分正八幡宮'''、'''国分八幡宮'''とも呼ばれた。[[石清水八幡宮別宮]]で[[宇佐八幡宮五所別宮]]の一つ。 <!-- ==奉斎== ==由緒== --> ==歴史== *不詳:[[高千穂宮]]跡(石体神社の地)に創建。 *708年(和銅1年):現在地に遷座。 *860年(貞観2年)3月20日:鹿児島神、神階従五位下から従五位上(三代実録) *927年(延長5年):延喜式に所載。大隅国・薩摩国で唯一の大社とされる。 *1034年(長元7年):[[石清水八幡宮]]別当元命、「大隅八幡別宮」の支配を朝廷から認められる。この頃には八幡神が祀られるようになったと思われる。 *1054年(天喜2年)6月8日:石清水八幡宮別当清成、[[宇佐宮寺]]惣検校職に就任し、[[大宰府]]から大隅国内の末寺末宮の支配を認められた。 *1087年(寛治1年):神宝紛失で大宰府が社殿修造。 *1088年(寛治2年):大宰大弐藤原実政による神輿襲撃事件を宇佐八幡宮が訴える。 *1091年(寛治5年)12月13日:焼失。 *1092年(寛治6年)2月15日:大隅国の負担で社殿再建を行うことを命じる。 *1094年(嘉保1年):焼失。 *1131年(天承1年):この頃、社領万徳領が成立。 *1132年(長承1年)4月20日:旧社殿所在地で「八幡」の2文字がある石体2基が出現したという。朝廷に報告。 *1135年(保延1年):これ以前、社領宮永名が成立。 *1179年(治承3年):藤原成経、喜界島配流からの帰途に正八幡宮執印のもとに寄宿。 *1197年(建久8年):『大隅国図田帳』『薩摩国図田帳』に1521町とある。 *1198年(建久9年):仮殿造営。 *中世:大隅国一宮、五所別宮の一つとされる。 *1204年(元久1年):訴えにより地頭職停止 *貞応年間:社殿再建。 *1253年(建長5年)3月12日:焼失。 *1274年(文永11年)夏:[[一向]]([[一向門流]]の祖)、大隅八幡宮で四十八夜不断念仏。夢告と共に「未敷蓮華」を授かったので歓喜して踊躍(踊躍念仏の創始)。神前を辞して行く路傍に「牧子」が落ちていたのでこれを拾って縫い合わせて袈裟とし、未敷蓮華を結びつけた。 *1276年(建治2年)頃:[[一遍]]、大隅正八幡宮に参拝(一遍上人絵伝)。 *1284年(弘安7年)2月28日:将軍惟康親王が社領寄進。 *永仁年間:坦然、臨済宗正興寺を創建。 *1301年(正安3年):将軍久明親王が社領寄進。 *1346年(正平1年/貞和2年):陵阿、[[遊行上人]]の宿坊として正行寺創建。 *1347年(正平2年/貞和3年):焼失。 *1447年(文安4年):焼失。 *1527年(大永7年)11月28日:清水城主本田董親軍、兵火で焼失。 *1547年(天文16年)8月28日:正興寺、十刹に列格(『鹿苑院公文帳』(十刹位次簿))。 *1551年(天文20年):新しく領主となった島津貴久の寄進で造営事業が始まり、御神体(尊像)が新たに造立されることになる。 *1560年(永禄3年):島津貴久、社殿再建。日秀が貢献。 *1584年(天正12年):本田董親軍が侵攻。神職らが退散。 *1599年(慶長4年):南浦文之が正興寺に入寺。 *江戸時代:729石(三州御治世要覧) *1756年(宝暦6年):島津重年、社殿修復。 *1871年(明治4年):国幣中社に列格し、鹿児島神社と改称。 *1874年(明治7年):官幣中社に昇格。[[神宮号]]を認められ、鹿児島神宮と改称。 *1895年(明治28年):官幣大社に昇格。 ==境内== *本社: *[[石体神社]]:摂社。鹿児島神宮の元宮に当たる。鹿児島県が指定した[[神代並神武天皇聖蹟]]の一つで[[神代聖蹟高千穂宮]]の石碑がある。石体宮。 *四所神社:祭神は[[大雀命]]・石姫命・荒田郎女・根鳥命。摂社。『三国名勝図会』には「大御前・若宮・若姫・宇礼姫」とある。四所宮。 *武内神社:祭神は[[武内宿禰]]。武内宮。 *隼風神社:祭神は[[日本武尊]]。日本武尊が隼人を討った時に用いた鉾を納めていたという。隼風宮。 *保食神社:一の鳥居の前にある。 *三之社:祭神は[[火闌降命]]・大隅命。二の鳥居の前にある。 *三之社:祭神は[[豊姫命]]・[[磯良命]]。 *三之社:祭神は[[武甕槌命]]・[[経津主命]]。 *御門神社:宮橋の裏にある。随神祠 *御門神社: *雨之社:祭神は[[豊玉彦命]]。江戸時代には猿田彦大神。 *大多羅知女神社: *山神神社: *稲荷神社:末社。 *招魂社:[[招魂社]]。 *[[卑弥呼神社]]: *[[日秀神社]]:祭神は日秀。 *祖霊社:納骨堂。[[祖霊社]]。 *祓所: *亀石: *神庫: *[[浜殿]]:鹿児島県霧島市隼人町真孝。浜之市港にある。八幡屋敷。浜下りの神事の[[御旅所]]。石碑が建つ。 ==関連旧跡== *[[隼人塚]]:鹿児島県霧島市隼人町内山田。 *[[大隅・弥勒院|弥勒院]]:鹿児島県霧島市隼人町内。[[天台宗]]。大隅八幡宮別当。廃絶。[[性空]]が創建。旧称は弥勒寺。1723年(享保8年)復興。 *[[大隅・正興寺|正興寺]]:鹿児島県霧島市隼人町内。[[臨済宗]]。三本地所の一つ。永仁年間の創建。[[十刹]]。[[南禅寺]]末、のち[[建仁寺]]末。廃絶。 *正高寺:鹿児島県霧島市隼人町内山田。[[真言宗]]。三本地所の一つ。1348年(正平3年/貞和4年)、一慶が創建。1603年(慶長8年)、宝来山成菩提院と号す。東前坊・南蔵坊・岩井坊・西之坊・曼荼羅坊・尾崎坊があった。近世後期には廃絶。 *[[正国寺]]:鹿児島県霧島市隼人町内山田。[[律宗]]。三本地所の一つ。廃絶。跡地に隼人歴史民俗資料館がある。大和[[西大寺]]末。 *密常院:鹿児島県霧島市隼人町内。天台宗。正八幡宮の護摩所。弥勒院末。1551年(天文20年)日秀が真言宗寺院として創建。1731年(享保16年)天台宗に転じた。正護寺。廃絶。 *正行寺:鹿児島県霧島市隼人町内。[[時宗]]。一遍の旧跡であるため歴代の[[遊行上人]]の参詣が恒例となる。1346年(正平1年/貞和2年)、陵阿が遊行上人参詣時の宿坊として創建。廃絶。 *[[三光院]]:鹿児島県霧島市隼人町朝日。真言宗。1560年(永禄3年)日秀が創建。日秀は大友氏戦勝祈祷のため入定し、信仰の対象となる(日秀神社)。廃絶。 *[[高屋山上陵]]:鹿児島県霧島市溝辺町麓。祭神のホホデミの[[陵墓]]。皇室治定陵墓。[[神代三陵]]の一つ。 *[[桜島]]:鹿児島県鹿児島市。鹿児島神宮の社殿は桜島の方向を向いており、かつての神体山という説がある。 *別宮:正若宮。四所若宮。神領の四至に別宮を創建。5社を伝える。 **東:投谷八幡:[[投谷神社]]:鹿児島県曽於市大隅町大谷。祭神は神功皇后・応神天皇・仁徳天皇。郷社。708年(和銅1年)創建。境内南西の山中に石体という巨石がある。近くに千人塚がある。郷社。投谷八幡宮。 **西:蒲生八幡:[[大隅・蒲生八幡神社]]:鹿児島県姶良市蒲生町上久徳。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。蒲生院の鎮守。1123年(保安4年)創建か。1873年(明治6年)郷社に列格し八幡神社と改称。1916年(大正5年)[[県社]]に昇格。1986年(昭和61年)蒲生八幡神社と改称。正八幡若宮八幡宮。別当は神守寺。 **南:荒田八幡:[[荒田八幡宮]]:鹿児島県鹿児島市下荒田。祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫尊。荒田庄の鎮守とみられる。村社。元は現在地より西にあったともいう。境内社として四所宮・武内社・早風社。四方随神もあった。 **北:栗野八幡:[[勝栗神社]]:鹿児島県姶良郡湧水町米永。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。栗野院の鎮守。栗野若宮。正若宮八幡社。別当は梅中寺。境内社として四所宮・武内宮・早風宮・雨宮社。1870年(明治3年)勝栗神社に改称。郷社。 **?:姶良正八幡宮:八幡神社:鹿児島県鹿屋市吾平町上名。祭神は応神天皇。姶良郷の総鎮守。1043年(長久4年)平良宗が創建。1871年(明治4年)麓村から現在地に移転。村社。別当は幸田寺。正若宮八幡宮。 *[[薩摩・鹿児島神社]]:鹿児島市草牟田。薩摩国鹿児島郡。[[国史見在社]]論社。県社。宇治瀬神社。氏瀬神社。宇津佐大明神。 *[[鹿児島・若宮神社]]:鹿児島県鹿児島市池之上町。祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・玉依姫命。島津氏久が国分正八幡宮の三之神輿を遷座したのが始まりという。鹿児島五社の第五位。郷社。若宮八幡宮。 ==組織== 執印、権執印などがあった。執印は[[善法寺]]から下向した[[紀氏]]が世襲(善法寺ではなく、善法寺家か)。権執印は息長氏が世襲した。 幕末には執印留守の留守家、神主の桑幡家、田所の沢家、別当の最勝寺家を四社家と呼んだ。古くは隼人十八家があった。 ===執印=== *判有()<-1087->: *行賢()<1088->: *康範()<-1355->: ===宮司=== *桑幡公幸(1856-1931)<?-1887>:書家。号は南洲。 *黒田清兼()<1892->:鹿児島藩士。画家黒田清輝の実父。1881年(明治14年)12月9日、大和神社宮司。1882年(明治15年)2月25日、[[氷川神社]]宮司。1887年(明治20年)11月22日林務官に転任。1892年(明治25年)10月18日、[[鹿児島神宮]]宮司。 *佐藤重三郎(1883-1952)<?-1936>:群馬県出身。国学院大学卒。1936年(昭和11年)[[塩竈神社]]宮司。[[関東神宮]]宮司。[[宮城県護国神社]]社司。(略歴は、[[関東神宮#組織]]を参照) *古川左京(1888-1970)<>:[[塩竈神社]]宮司。 *岡泰雄(1871-1941)<1923-1924>:1923年(大正12年)4月19日、鹿児島神宮宮司。1924年(大正13年)[[神宮神部署]]東京支署長。(略歴は、[[鹿島神宮#組織]]を参照) *前田勝也(1900-1981)<1939-1940>:1939年(昭和14年)鹿児島神宮宮司。1940年(昭和15年)[[神祇院]]教務官。(略歴は[[北海道神宮#組織]]を参照) *有賀忠義()<>: *大西重俊()<?-1957>:[[都々古別神社]]宮司、[[結城神社]]宮司、[[石上神宮]]宮司を経て1952年(昭和27年)鹿児島神宮宮司。1957年(昭和32年)死去。 *小久保光雄()<1958-1966>:1958年(昭和33年)鹿児島神宮宮司。1966年(昭和41年)[[霧島神宮]]宮司。 *岩重武巳()<1968-1984>:1968年(昭和43年)鹿児島神宮宮司。1984年(昭和59年)退任。 *中別府良重()<1984-1993>:1984年(昭和59年)鹿児島神宮宮司。 *川上親昌(-2015)<1993-2015>:1993年(平成5年)鹿児島神宮宮司。2015年(平成27年)死去。 *幸野珍広()<>: ==画像== <gallery> file:kagoshima-jingu_001.jpg| </gallery> ===古典籍=== *大隅宮縁起 [[category:鹿児島県]]
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