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鹿児島神宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年10月19日 (水)
鹿児島神宮(かごしま・じんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内(大隅国桑原郡)の高千穂宮跡にある穂穂出見尊を祀る神社。官社。大隅国一宮。官幣大社。神社本庁別表神社。北西10kmに穂穂出見尊の陵墓の高屋山上陵がある。八幡信仰の神社ともされ、大隅正八幡宮、大隅八幡宮、国分正八幡宮、国分八幡宮とも呼ばれた。石清水八幡宮別宮で宇佐八幡宮五所別宮の一つ。
目次 |
歴史
- 不詳:高千穂宮跡(石体神社の地)に創建。
- 708年(和銅1年):現在地に遷座。
- 860年(貞観2年)3月20日:鹿児島神、神階従五位下から従五位上(三代実録)
- 927年(延長5年):延喜式に所載。大隅国・薩摩国で唯一の大社とされる。
- 1034年(長元7年):石清水八幡宮別当元命、「大隅八幡別宮」の支配を朝廷から認められる。この頃には八幡神が祀られるようになったと思われる。
- 1054年(天喜2年)6月8日:石清水八幡宮別当清成、宇佐宮寺惣検校職に就任し、大宰府から大隅国内の末寺末宮の支配を認められた。
- 1087年(寛治1年):神宝紛失で大宰府が社殿修造。
- 1088年(寛治2年):大宰大弐藤原実政による神輿襲撃事件を宇佐八幡宮が訴える。
- 1091年(寛治5年)12月13日:焼失。
- 1092年(寛治6年)2月15日:大隅国の負担で社殿再建を行うことを命じる。
- 1094年(嘉保1年):焼失。
- 1131年(天承1年):この頃、社領万徳領が成立。
- 1132年(長承1年)4月20日:旧社殿所在地で「八幡」の2文字がある石体2基が出現したという。朝廷に報告。
- 1135年(保延1年):これ以前、社領宮永名が成立。
- 1179年(治承3年):藤原成経、喜界島配流からの帰途に正八幡宮執印のもとに寄宿。
- 1196年(建久7年):成清の申請で、石清水八幡宮の九州五所別宮が設置され、大隅正八幡宮も宇佐弥勒寺の支配下に入る。
- 1197年(建久8年):『大隅国図田帳』『薩摩国図田帳』に1521町とある。
- 1198年(建久9年):仮殿造営。
- 中世:大隅国一宮とされる。
- 1204年(元久1年):訴えにより地頭職停止
- 貞応年間:社殿再建。
- 1253年(建長5年)3月12日:焼失。
- 1274年(文永11年)夏:一向(一向門流の祖)、大隅八幡宮で四十八夜不断念仏。夢告と共に「未敷蓮華」を授かったので歓喜して踊躍(踊躍念仏の創始)。神前を辞して行く路傍に「牧子」が落ちていたのでこれを拾って縫い合わせて袈裟とし、未敷蓮華を結びつけた。
- 1276年(建治2年)頃:一遍、大隅正八幡宮に参拝(一遍上人絵伝)。
- 1284年(弘安7年)2月28日:将軍惟康親王が社領寄進。
- 永仁年間:坦然、臨済宗正興寺を創建。
- 1301年(正安3年):将軍久明親王が社領寄進。
- 1346年(正平1年/貞和2年):陵阿、遊行上人の宿坊として正行寺創建。
- 1347年(正平2年/貞和3年):焼失。
- 1447年(文安4年):焼失。
- 1527年(大永7年)11月28日:清水城主本田董親軍、兵火で焼失。
- 1547年(天文16年)8月28日:正興寺、十刹に列格(『鹿苑院公文帳』(十刹位次簿))。
- 1551年(天文20年):新しく領主となった島津貴久の寄進で造営事業が始まり、御神体(尊像)が新たに造立されることになる。
- 1560年(永禄3年):島津貴久、社殿再建。日秀が貢献。
- 1584年(天正12年):本田董親軍が侵攻。神職らが退散。
- 1599年(慶長4年):南浦文之が正興寺に入寺。
- 江戸時代:729石(三州御治世要覧)
- 1756年(宝暦6年):島津重年、社殿修復。
- 1871年(明治4年):国幣中社に列格し、鹿児島神社と改称。
- 1874年(明治7年):官幣中社に昇格。神宮号を認められ、鹿児島神宮と改称。
- 1895年(明治28年):官幣大社に昇格。
境内
- 本社:
- 石体神社:摂社。鹿児島神宮の元宮に当たる。鹿児島県が指定した神代並神武天皇聖蹟の一つで神代聖蹟高千穂宮の石碑がある。石体宮。
- 四所神社:祭神は大雀命・石姫命・荒田郎女・根鳥命。摂社。『三国名勝図会』には「大御前・若宮・若姫・宇礼姫」とある。四所宮。
- 武内神社:祭神は武内宿禰。武内宮。
- 隼風神社:祭神は日本武尊。日本武尊が隼人を討った時に用いた鉾を納めていたという。隼風宮。
- 保食神社:一の鳥居の前にある。
- 三之社:祭神は火闌降命・大隅命。二の鳥居の前にある。
- 三之社:祭神は豊姫命・磯良命。
- 三之社:祭神は武甕槌命・経津主命。
- 御門神社:宮橋の裏にある。随神祠
- 御門神社:
- 雨之社:祭神は豊玉彦命。江戸時代には猿田彦大神。
- 大多羅知女神社:
- 山神神社:
- 稲荷神社:末社。
- 招魂社:招魂社。
- 卑弥呼神社:
- 日秀神社:祭神は日秀。
- 大隅・蛭児神社:二之宮大明神。大隅国二宮。『八雲御抄』に歌枕「なげきの杜」として挙げられている。1750年に現在地に遷座。
- 祖霊社:納骨堂。祖霊社。
- 祓所:
- 亀石:
- 神庫:
- 浜殿:鹿児島県霧島市隼人町真孝。浜之市港にある。八幡屋敷。浜下りの神事の御旅所。石碑が建つ。
関連旧跡
- 隼人塚:鹿児島県霧島市隼人町内山田。
- 弥勒院:鹿児島県霧島市隼人町内。天台宗。大隅八幡宮別当。廃絶。性空が創建。旧称は弥勒寺。1723年(享保8年)復興。
- 正興寺:鹿児島県霧島市隼人町内。臨済宗。三本地所の一つ。永仁年間の創建。十刹。南禅寺末、のち建仁寺末。廃絶。
- 正高寺:鹿児島県霧島市隼人町内山田。真言宗。三本地所の一つ。1348年(正平3年/貞和4年)、一慶が創建。1603年(慶長8年)、宝来山成菩提院と号す。東前坊・南蔵坊・岩井坊・西之坊・曼荼羅坊・尾崎坊があった。近世後期には廃絶。
- 正国寺:鹿児島県霧島市隼人町内山田。律宗。三本地所の一つ。廃絶。跡地に隼人歴史民俗資料館がある。大和西大寺末。
- 密常院:鹿児島県霧島市隼人町内。天台宗。正八幡宮の護摩所。弥勒院末。1551年(天文20年)日秀が真言宗寺院として創建。1731年(享保16年)天台宗に転じた。正護寺。廃絶。
- 正行寺:鹿児島県霧島市隼人町内。時宗。一遍の旧跡であるため歴代の遊行上人の参詣が恒例となる。1346年(正平1年/貞和2年)、陵阿が遊行上人参詣時の宿坊として創建。廃絶。
- 三光院:鹿児島県霧島市隼人町朝日。真言宗。1560年(永禄3年)日秀が創建。日秀は大友氏戦勝祈祷のため入定し、信仰の対象となる(日秀神社)。廃絶。
- 高屋山上陵:鹿児島県霧島市溝辺町麓。祭神のホホデミの陵墓。皇室治定陵墓。神代三陵の一つ。
- 桜島:鹿児島県鹿児島市。鹿児島神宮の社殿は桜島の方向を向いており、かつての神体山という説がある。
- 別宮:正若宮。四所若宮。神領の四至に別宮を創建。5社を伝える。
- 東:投谷八幡:投谷神社:鹿児島県曽於市大隅町大谷。祭神は神功皇后・応神天皇・仁徳天皇。郷社。708年(和銅1年)創建。境内南西の山中に石体という巨石がある。近くに千人塚がある。郷社。投谷八幡宮。
- 西:蒲生八幡:大隅・蒲生八幡神社:鹿児島県姶良市蒲生町上久徳。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。蒲生院の鎮守。1123年(保安4年)創建か。1873年(明治6年)郷社に列格し八幡神社と改称。1916年(大正5年)県社に昇格。1986年(昭和61年)蒲生八幡神社と改称。正八幡若宮八幡宮。別当は神守寺。
- 南:荒田八幡:荒田八幡宮:鹿児島県鹿児島市下荒田。祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫尊。荒田庄の鎮守とみられる。村社。元は現在地より西にあったともいう。境内社として四所宮・武内社・早風社。四方随神もあった。
- 北:栗野八幡:勝栗神社:鹿児島県姶良郡湧水町米永。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。栗野院の鎮守。栗野若宮。正若宮八幡社。別当は梅中寺。境内社として四所宮・武内宮・早風宮・雨宮社。1870年(明治3年)勝栗神社に改称。郷社。
- ?:姶良正八幡宮:八幡神社:鹿児島県鹿屋市吾平町上名。祭神は応神天皇。姶良郷の総鎮守。1043年(長久4年)平良宗が創建。1871年(明治4年)麓村から現在地に移転。村社。別当は幸田寺。正若宮八幡宮。
- 薩摩・鹿児島神社:鹿児島市草牟田。薩摩国鹿児島郡。国史見在社論社。県社。宇治瀬神社。氏瀬神社。宇津佐大明神。
- 鹿児島・若宮神社:鹿児島県鹿児島市池之上町。祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・玉依姫命。島津氏久が国分正八幡宮の三之神輿を遷座したのが始まりという。鹿児島五社の第五位。郷社。若宮八幡宮。
組織
最高職の「検校」に石清水八幡宮の社僧が就き、本末関係の根拠となった。現地では執印、権執印などがあった。執印は善法寺から下向した紀氏が世襲(善法寺ではなく、善法寺家か)。権執印は息長氏が世襲した。 幕末には執印留守の留守家、神主の桑幡家、田所の沢家、別当の最勝寺家を四社家と呼んだ。古くは隼人十八家があった。
- 留守家:紀氏。「執印留守」職。170石。1363年(正平18年/貞治2年)善法寺から下向した留守景信に始まるという。留守氏館跡には今も土塁が残る。
- 桑幡家:息長氏。「神主」職。160石。火闌降命を祖とする。桑幡氏館跡からは大量の土師器が出土している。多くの文書が伝わる。
- 沢家:源氏。「田所検校」職。70石。嵯峨源氏。842年(承和9年)に下向したと伝える。沢家墓碑群が残る。沢氏館跡からはタイ製の壺が出土している。
- 最勝寺家:藤原氏。「別当」職。25石。右大臣藤原師輔の六世孫の道宗が寛治年間に下向。最勝寺氏館跡には堀が巡らせてあった。墓地がある。
検校
社務を監督する最高職。山城国の石清水八幡宮の社僧が就いた。九州に来ることはなく、石清水八幡宮から大隅正八幡宮を支配した。宇佐弥勒寺講師(宇佐の長官)、喜多院検校と共に3職がセットで継承された。九州五所別宮の中で検校職が設置されたのは大隅正八幡宮だけだった。検校職の史料上の初見は1199年(正治1年)7月30日の太政官符で「宇佐弥勒寺并喜多院・正宮検校職」とある。この直前の1196年(建久7年)、成清の申請で、石清水八幡宮の九州五所別宮が設置され、大隅正八幡宮も宇佐弥勒寺の支配下に入った。検校職の設置はこの頃とみられる。検校職は1462年(寛正3年)9月の寺家政所下文を最後に史料に現れなくなった。史料上は以下の12人が確認されている。いずれも善法寺家系のものという。就任の手続きは前任者から譲り受けて朝廷に安堵を求める奏状を提出し、太政官符により正式に認定された。(「石清水八幡宮寺の別宮支配について」)
- 成清()<>:史料上は確認できないが検校であった可能性がある。1196年(建久7年)から1199年(正治1年)か。
- 祐清()<>:1190年(建久1年)10月、宇佐弥勒寺兼喜多院検校を継承。1199年(正治1年)7月30日に正八幡宮検校か。
- 秀清()<>:1206年(建永1年)6月9日、弥勒寺・喜多院・正八幡宮検校。
- 棟清()<>:1220年(承久2年)12月、弥勒寺・正八幡宮検校。
- 宝清()<>:1238年(暦仁1年)3月27日、弥勒寺・喜多院・正八幡宮検校。
- 宮清()<>:1242年(仁治3年)9月21日、弥勒寺・喜多院・正八幡宮検校。
- 尚清()<>:1263年(弘長3年)12月20日、弥勒寺・喜多院・正八幡宮検校。
- 肇清()<>:1297年(永仁5年)6月、弥勒寺・喜多院・正八幡宮検校。
- 通清()<>:1300年(正安2年)6月21日、弥勒寺・喜多院・正八幡宮検校。1300年(正安2年)6月21日、正八幡宮検校のみ康清に譲る。
- 康清()<>:1311年(応長1年)12月15日、正八幡宮検校(弥勒寺・喜多院は譲られず)。
- 永清()<>:
- 了清()<>:
- 宋清()<>:
執印
必ずしも常設の職ではなかった。石清水八幡宮の社僧が就く。ときに現地に赴任したが、やがて遙任が常態化した。のちには在地の留守氏が留守職と共に執印職を兼務するようになった。(「石清水八幡宮寺の別宮支配について」)
- 判有()<-1087->:
- 行賢()<1088->:1088年(寛治2年)3月。
- 隆賢()<>:1141年(永治1年)10月。
- 行賢
- 隆賢
- 盛兼()<>:成兼。1221年(承久3年)在職。
- 成運()<>:
- 成慶()<>:
- 成禅()<>:1229年(寛喜1年)以前。
- 院能()<>:
- 院勝()<>:1279年(弘安2年)在職。
- 康範()<-1355->:
- 法眼坊()<>:1362年(正平17年/貞治1年)6月、大隅下向を図るが留守職に抵抗される。
- 善範()<>:1425年(応永32年)在職。留守氏。
- 儀景()<>:1551年(天文20年)8月26日就任。留守氏。
- 景親()<>:1576年(天正4年)在職。留守氏。
- 道隆()<>:1593年(文禄2年)8月6日、執印。
- 光頼()<>:不詳。
留守家
- 1:留守景信()<>:1363年(正平18年/貞治2年)4月3日、善法寺から下向したという。
- 2:留守幸範()<>:
- 3:留守景延()<>:
- 4:留守景俊()<>:
- 5:留守景照()<>:1482年(文明14年)生存
- 6:留守景政()<>:
- 7:留守義景()<>:
- 8:留守景親()<>:
- 9:留守藤景()<>:
- 10:留守景広()<>:
- 11:留守景種()<>:
- 12:留守景恒()<>:
- 13:留守景意()<>:明治維新
- 14:留守景次()<>:
- 15:留守景広()<>:
- 16:留守景彦()<>:
(「中世大隅正八幡宮をとりまく空間構造」)
桑幡家
- 27:桑幡公古()<>:
- 28:桑幡公清()<>:728年(神亀5年)9月死去。
- 29:桑幡公光()<>:
- 30:桑幡公翁()<>:
- 31:桑幡泰翁()<>:
- 32:桑幡泰元()<>:
- 33:桑幡助泰()<>:
- 34:桑幡公秀()<>:
- 35:桑幡公安()<>:
- 36:桑幡公定()<>:
- 37:桑幡公半()<>:
- 38:桑幡公義()<>:
- 39:桑幡公通()<>:
- 40:桑幡通昌()<>:
- 41:桑幡信昌()<>:
- 42:桑幡信重()<>:執印。984年(永観2年)4月12日死去。66歳。
- 43:桑幡重家()<>:
- 44:桑幡重頼()<>:
- 45:桑幡頼春()<>:執印。1051年(永承6年)6月17日死去。74歳。
- 46:桑幡頼元()<>:
- 47:桑幡頼康()<>:
- 48:桑幡頼吉()<>:
- 49:桑幡頼弦()<>:
- 50:桑幡助頼()<>:
- 51:桑幡助良()<>:
- 52:桑幡助清()<>:
- 53:桑幡清道()<>:平清盛と親交を持つ(長門本平家物語)。
- 54:桑幡助道()<>:
- 55:桑幡栄道()<>:
- 56:桑幡道継()<>:
- 57:桑幡道秀()<>:
- 58:桑幡道久()<>:
- 59:桑幡道世()<>:
- 60:桑幡道昌()<>:
- 61:桑幡道恒()<>:父は道宗(道世弟の道之の子)。
- 62:桑幡道泰()<>:
- 63:桑幡道重()<>:
- 64:桑幡道元()<>:
- 65:桑幡道景()<>:
- 66:桑幡道延()<>:1560年(永禄3年)遷宮
- 67:桑幡道隆()<>:1584年(天正12年)12月13日、三男の元服を行っている
- 68:桑幡道武()<>:
- 69:桑幡道好()<>:
- 70:桑幡道渡()<>:
- 71:桑幡道賢()<>:
- 72:桑幡道盈()<>:
- 73:桑幡公朝()<>:
- 74:桑幡公幸()<>:鹿児島神宮宮司。
- 75:桑幡公秀()<>:鹿児島神宮、新田神社に奉職。
- 76:桑幡和幸()<>:針綱神社に奉職
(「中世大隅正八幡宮をとりまく空間構造」)
宮司
代数 | 名前 | 生没 | 在職 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 三雲四月若麿 | ?-1892 | 1872- | 鹿児島藩士。1862年(文久2年)3月、島津久光に随行して上京し、5月江戸に赴く。1863年(文久3年)薩英戦争に従軍。1868年(明治1年)1月5日、山陰道総督西園寺公望に随行。4月、神祇事務局より神代山陵取調掛に任命される。5月から9月、実地を調査。1869年(明治2年)12月1日、鹿児島藩から鹿児島神社神主に任命。1872年(明治5年)5月15日、鹿児島神社権宮司。6月14日、宮司。1882年(明治15年)7月28日、正七位。1892年(明治25年)死去。教導職大講義。三雲四月若丸。三雲四月若麻呂。三雲藤一郎か。 |
桑幡公幸 | 1856-1931 | ?-1887 | 書家。神主家の出身。1856年(安政3年)生。1887年(明治20年)まで鹿児島神宮宮司。1931年(昭和6年)12月16日死去。号は南洲。著書『国分の古蹟』[1]。 | |
黒田清兼 | 1838-1915 | 1892-1915 | 鹿児島藩士。画家黒田清輝の実父。1838年(天保9年)生。1871年(明治4年)鹿児島県権大属。1872年(明治5年)鹿児島県大属をへて東京府大属。1876年(明治9年)11月13日、教部省九等出仕。1877年(明治10年)山形県二等属。1881年(明治14年)司法省判事補。1881年(明治14年)12月9日、大和神社宮司。1882年(明治15年)2月25日、氷川神社宮司。1887年(明治20年)11月22日林務官に転任。1892年(明治25年)10月18日、鹿児島神宮宮司。1915年(大正4年)7月9日死去。 | |
古川左京 | 1888-1970 | 1915-1921 | 塩竈神社宮司。1915年(大正4年)9月15日、鹿児島神宮宮司。1921年(大正10年)3月26日、諏訪大社宮司。伊勢神宮少宮司。(略歴は、伊勢神宮#組織を参照) | |
加藤七郎 | 1885-1947 | 1921-1923 | 愛知県出身。1885年(明治18年)生。神宮皇学館卒。伊和神社宮司。1921年(大正10年)3月26日、鹿児島神宮宮司。1923年(大正12年)4月19日、長崎諏訪神社宮司。1924年(大正13年)3月12日、大和神社宮司。1925年(大正14年)2月、石上神宮宮司を兼務。1927年(昭和2年)3月31日、石上神宮宮司専任。三島大社宮司。1938年(昭和13年)4月16日、大神神社宮司。1947年(昭和22年)死去。 | |
岡泰雄 | 1871-1941 | 1923-1924 | 1923年(大正12年)4月19日、鹿児島神宮宮司。1924年(大正13年)11月23日、神宮神部署主事。東京支署長。(略歴は、鹿島神宮#組織を参照) | |
有賀忠義 | 1883-1968 | 1925-1931 | 山梨県出身。1883年(明治16年)生。1903年(明治36年)神宮皇学館卒。賀茂別雷神社、浅間神社、金鑚神社、浅間神社を経て1921年(大正10年)9月2日、唐沢山神社宮司。1925年(大正14年)鹿児島神宮宮司。1931年(昭和6年)4月30日(28日とも)、氷川神社宮司。1939年(昭和14年)4月1日、埼玉県護国神社社司を兼務。1946年(昭和21年)埼玉県神社庁初代庁長。1959年(昭和34年)11月30日、氷川神社宮司を退任。1968年(昭和43年)12月7日死去。 | |
佐藤重三郎 | 1883-1952 | 1931-1936 | 群馬県嬬恋村出身。1883年(明治16年)生。1906年(明治39年)国学院大学卒。皇典講究所に奉職。1908年(明治41年)、群馬県の熊野神社などの社掌。神宮神部署長野支署長。1916年(大正5年)5月1日、神宮神部署主事。1922年(大正11年)3月30日、神宮神部署神部。1928年(昭和3年)7月28日、神宮禰宜。1931年(昭和6年)4月28日、鹿児島神宮宮司。1936年(昭和11年)志波彦神社・塩竈神社宮司。1930年(昭和5年)、志波彦神社塩竃神社神職養成所を創設し初代所長。宮城県護国神社社司。1944年(昭和19年)9月14日、初代関東神宮宮司。1948年(昭和23年)、国学院大学理事。1952年(昭和27年)死去。(未見「佐藤重三郎宮司の片鱗」) | |
後藤幸平 | 1889-1966 | ?-1939 | 名古屋出身。1889年(明治22年)生。1923年(大正12年)国学院大学卒。霧島神宮禰宜。1931年(昭和6年)貫前神社宮司。1933年(昭和8年)佐嘉神社初代宮司。鹿児島神宮宮司。1939年(昭和14年)8月28日、湊川神社宮司。兵庫県神社庁長。1948年(昭和23年)3月21日、鵜戸神宮宮司。1954年(昭和29年)8月11日、霧島神宮宮司。1966年(昭和41年)5月29日死去。 | |
前田勝也 | 1900-1981 | 1939-1940 | 1939年(昭和14年)8月28日、鹿児島神宮宮司。1940年(昭和15年)神祇院教務官。(略歴は北海道神宮#組織を参照) | |
大西重俊 | 1891-1957 | 1940-1957 | 山口県出身。1891年(明治24年)生。1914年(大正3年)国学院大学国文科卒。神宮宮掌、神宮権禰宜。1930年(昭和5年)都々古別神社宮司、1933年(昭和8年)6月9日、結城神社宮司、1938年(昭和13年)5月3日、石上神宮宮司。1940年(昭和15年)鹿児島神宮宮司。1952年(昭和27年)鹿児島県神社庁長。1954年(昭和29年)神社本庁長老。1957年(昭和32年)12月13日死去。 | |
小久保光雄 | 1908-1991 | 1958-1966 | 愛知県出身。1908年(明治41年)生。国学院大学高等師範部卒。赤間宮、田島神社、鹿児島神宮禰宜を経て1953年(昭和28年)鹿児島神宮権宮司。1958年(昭和33年)、鹿児島神宮宮司。1964年(昭和39年)鹿児島県神社庁長。1966年(昭和41年)9月1日、霧島神宮宮司。1970年(昭和45年)鹿児島県神社庁長。1983年(昭和58年)6月9日から1989年(平成1年)6月1日まで枚聞神社宮司を兼務。1986年(昭和61年)神社本庁長老。1991年(平成3年)11月20日死去。(略歴は、霧島神宮#組織を参照) | |
岩重武巳 | 1917- | 1968-1984 | 鹿児島県出身。1917年(大正6年)生。1938年(昭和13年)国学院大学神道部卒。霧島神宮禰宜、照国神社禰宜を経て1968年(昭和43年)3月31日、鹿児島神宮宮司。1984年(昭和59年)10月31日退任。同年、阿久根市宮崎神社宮司。 | |
中別府良重 | 1909- | 1984-1993 | 鹿児島県出身。1909年(明治42年)生。1926年(昭和1年)国分精華学校卒。1941年(昭和16年)鹿児島神宮主典。1953年(昭和28年)禰宜、1966年(昭和41年)宮司代務者。1975年(昭和50年)権宮司。1984年(昭和59年)12月20日、鹿児島神宮宮司。 | |
川上親昌 | 1943-2015 | 1993-2015 | 1943年(昭和18年)生。1965年(昭和40年)山口国学院本科卒。1989年(平成1年)鹿児島神宮権宮司。1993年(平成5年)9月1日、鹿児島神宮宮司。1996年(平成8年)鹿児島県神社庁長。2015年(平成27年)10月3日死去。 | |
幸野珍広 | 2018- | 1979年(昭和54年)国学院大学神道学専攻科修了。2018年(平成30年)鹿児島神宮宮司。 |
権宮司
- 三雲四月若麿(?-1892)<1872-1872>:1872年(明治5年)5月15日、鹿児島神社権宮司。6月14日、鹿児島神社宮司。
- 小久保光雄(1908-1991)<1953-1958>:1953年(昭和28年)鹿児島神宮権宮司。1958年(昭和33年)、鹿児島神宮宮司。
- 中別府良重(1909-)<1975-1984>:1975年(昭和50年)鹿児島神宮権宮司。1984年(昭和59年)12月20日、鹿児島神宮宮司。
- 川上親昌(1943-2015)<1989-1993>:1989年(平成1年)鹿児島神宮権宮司。1993年(平成5年)9月1日、鹿児島神宮宮司。
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古典籍
- 1939『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料4官幣大社鹿児島神宮』[4]
- 1941『官幣大社鹿児島神宮略誌』
- 三ツ石友三郎1985『隼人郷土誌』
- 三ツ石友三郎1989『鹿児島神宮史』
- 霧島市立隼人歴史民俗資料館2010『海と城館が支えた祈りの世界―大隅正八幡宮と宮内の1000年』
- 1997『鹿児島神宮文化財調査報告書』
- 霧島市立隼人歴史民俗資料館・鹿児島県歴史資料センター黎明館編2013『大隅国建国と大隅正八幡宮の至宝―湾奥の古代・中世』
- 霧島市教育委員会2010『霧島市埋蔵文化財発掘調査報告書8弥勒院跡―遺物編』
- 霧島市教育委員会2010『霧島市文化財調査報告書―大隅正八幡宮関連遺跡群―総合調査報告書』
- 霧島市教育委員会2011『霧島市埋蔵文化財発掘調査報告書10留守氏館跡・〓家屋敷跡・龍波見氏館・町後遺跡』
- 霧島市教育委員会2011『霧島市埋蔵文化財発掘調査報告書14最勝寺氏館跡1』
- 霧島市教育委員会2011『大隅正八幡宮関連遺跡群―総合調査報告書』
- 霧島市教育委員会2012『大隅正八幡宮跡:鹿児島神宮第1次調査―保存整備目的に伴う埋蔵文化財発掘調査報告』
- 霧島市教育委員会2012『霧島市埋蔵文化財発掘調査報告書―大隅正八幡宮跡』
- 霧島市教育委員会2013『霧島市埋蔵文化財発掘調査報告書19沢氏館跡2最勝寺氏館跡2』
- 霧島市教育委員会2013『大隅正八幡宮宮内遺跡総括報告書』
- 霧島市教育委員会2016『史跡大隅正八幡宮境内及び社家跡保存活用計画書』
- 初瀬哲夫1962『鹿児島神宮御田植祭資料』
- 五味克夫1970「大隅国正八幡宮領吉田院小考」[5](限定送信)
- 五味克夫1972「正八幡宮領加治木郷について」『鹿児島中世史研究会報』31(『鎌倉幕府の御家人制と南九州』所収)
- 五味克夫1973「大隅国正八幡宮領帖佐郷小考」[6](限定送信)
- 五味克夫1978「大隅国正八幡宮社家小考」『続荘園制と武家社会』(『鎌倉幕府の御家人制と南九州』所収)
- 五味克夫1979「大隅国正八幡宮社家小考補遺」『鹿児島中世史研究会報』38
- 五味克夫1986「大隅国正八幡宮関係文書拾遺」『鹿児島中世史研究会報』43
- 野崎道雄1981「祭神と社家を通じてみた鹿児島神宮について」『大隅』23
- 藤田俊雄1983「鎌倉中期文永年間の大宰府機構―大隅国正八幡宮大神宝用途をめぐって」[7](限定送信)
- 日隈正守1990「諸国一宮制の成立と展開―大隅国正八幡宮の場合」『古代中世史論集』
- 日隈正守1997「鹿児島神宮(大隅正八幡宮)の歴史」『鹿児島神宮文化財調査報告書』
- 日隈正守2006「大隅国における国一宮の形成過程に関する一考察」『年報中世史研究』31
- 日隈正守2008「大隅国正八幡宮社家機構の形成過程」[8]
- 日隈正守2010「平安後期から鎌倉期における大隅国正八幡宮の禰寝院支配」[9]
- 日隈正守2010「中世前期薩摩国阿多郡の歴史的位置について―国衙関係寺社を中心に」[10]
- 日隈正守2011「八幡正宮(大隅国正八幡宮)石体事件の歴史的意味に関する一考察」[11]
- 日隈正守2012「「石清水文書目録」に関する一考察」[12]
- 日隈正守2014「大隅国正八幡宮領帖佐郷に関する一考察―神王面事件を中心に」[13]
- 日隈正守2016「『桑幡家文書』所収「年月日不詳大隅正八幡宮神社次第」に関する一考察」[14]
- 1991『吉田町郷土誌』「大隅正八幡宮とその所領」[15]
- 吉良文男1993「鹿児島神宮伝来のタイ陶器」『東洋陶磁』
- 田原圭一郎・土田充義・晴永知之・島尾拓也・三浦将功・比嘉健・福永尚敬1997「鹿児島神宮の建築」『日本建築学会研究報告九州支部3計画系』36
- 宮里立士2002「鹿児島神宮―隼人の守護神を祭る神社から八幡信仰の神宮へ」『歴史読本』47-11
- 福島金治2004「中世後期大隅正八幡宮社家の存在形態」『中世一宮制の歴史的展開』
- 鳥越俊行・今津節生2007「大型X線CTスキャナを用いた陶磁器の調査報告―鹿児島神宮奉納陶磁器について」『東風西声』3
- 徳永健太郎2008『科研費日本中世神社史料の再検討による神社史研究の理論的枠組構築の試み』
- 栗林文夫2008「大隅国正八幡宮の執印について」『黎明』26-2
- 栗林文夫2010「石清水八幡宮寺の別宮支配について―大隅正八幡宮の場合を中心に」[16]
- 重久淳一2010「中世大隅正八幡宮をとりまく空間構造―社家館跡の調査から」[17]
- 重久淳一2012「大隅正八幡宮の空間と中世前期の様相」『一遍聖絵を歩く―中世の景観を読む』
- 重久淳一2012「大隅正八幡宮と一遍上人」『霧島市埋蔵文化財発掘調査報告書17大隅正八幡宮跡』
- 重久淳一2015「文化財レポート「大隅正八幡宮境内及び社家跡」の調査」『日本歴史』
- 重久淳一2019「国史跡「大隅正八幡宮境内及び社家跡」の保存と活用」『勝尾城筑紫氏遺跡と九州の史跡整備』
- 吉田扶希子2012「大隅正八幡宮の放生会―祭の復興と地域の活性化」『郷土再考』
- 鹿児島神宮所蔵陶瓷器調査団2013『鹿児島神宮所蔵陶瓷器の研究』
- 鈴木景二2014「史跡隼人塚とその石造物」『古代文化』66-2[18]
- 松原武実2018「鹿児島神宮お田植歌小論」『鹿児島民俗』153
- 筒井大祐2021「長門本『平家物語』と大隅正八幡宮縁起―六郷山縁起を視座として」[19]
- 文化庁2022「新指定の文化財―建造物「鹿児島神宮」」『月刊文化財』700