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新田神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月5日 (火)
新田神社 にった じんじゃ | |
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概要 | 瓊々杵尊陵に付随する神社。 |
奉斎 | 瓊々杵尊 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2 |
所在地(旧国郡) | 薩摩国高城郡 |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 薩摩国一宮・国幣中社・別表神社 |
関連記事 | 宇佐八幡宮五所別宮・神代三代旧跡 |
目次 |
概要
新田神社は、鹿児島県薩摩川内市の瓊々杵尊の可愛山陵に付随する神社。現在と異なり、かつては八幡神を祀るとされ、新田八幡宮と称し、石清水八幡宮別宮で宇佐八幡宮五所別宮の一つだった。薩摩国一宮・国幣中社・別表神社。神宮寺は五大院。(参考:同名神社新田神社_(同名))
歴史
- 神代:瓊瓊杵尊、崩御。亀山に埋葬。
- 1131年2月30日:「在国司大前道助請文案」に在国司に「新田宮御殿」の造営を命ずる庁宣があっまことから、この頃には国衙管轄の神社として成立していたとみられる
- 1135年10月25日:石清水権寺主は五大院政所正信に寺領の耕作への指示を厳密にするように命じる。既に石清水八幡宮の支配下にあり、神宮寺五大院が成立していたことが分かる。
- 1165年7月:「寺家政所下文案」に「御建立以来三百余歳」とある。
- 1173年12月18日:焼失
- 1176年10 月14日:卜占の結果、宇佐八幡宮や石清水八幡宮にならって社殿を山腹から山頂に移して再建することとなる。しかし再建はうまく進まなかったらしい。
- 1194年5月:これ以後、以後「八幡新田宮」「新田八幡宮」の呼称が用いられる(「新田八幡宮所司等申状」など)。
- 1203年10月26日:鎌倉幕府、新田宮執印職に惟宗康友を任命。以後、執印職は惟宗氏の世襲となる。執印職と権執印職は御家人として鎌倉幕府に仕えた。
- 1256年4月:執印惟宗友成ら神官は、天孫瓊瓊杵尊を祀る可愛陵高城千台宮と新田八幡宮は一体であるから(国をあげて造営に取り組むべきであり)国中の庄公郡郷に等しく課税して費用を捻出するように上進する。
- 1268年8月:宇佐八幡宮、大隅正八幡宮、藤崎八旛宮、千栗八幡宮、筥崎宮、香椎宮がそれぞれ国をあげて造替しているのを引き合いにして、薩摩の国司の怠慢を許さず、造営の実施を求める。
- 1275年:蒙古撃退の霊験があったことなども記し、再び造営を求める。
- 1284年5月3日:鎌倉幕府、薩摩国守護の島津氏に薩摩国一宮と薩摩国分寺に異国降伏祈願を命じる
- 1287年3月:新田神社、薩摩国一宮は開聞神社ではなく新田神社だと主張。以後、両神社の間で争論が続く。
- 1291年6月:修造のため新田宮執印の上府(鎌倉?)が命じられた。
- 1293年:守護島津忠宗、いずれを一宮と定めることなく近年の例として新田神社に奉納。ただしこれが新田神社を一宮とする後押しとなる。
- 1299年3月:この年までに正殿・四所社・武内社などが造営された。他の社殿の造営を求める。
- 1324年5月:「新田宮所司神官等解文」で「薩摩国一宮八幡新田宮」と称す。
- 1587年4月17日:豊臣秀吉、禁制を掲げる。
- 1592年:豊臣秀吉、寺社領勘落政策で社領20町を残す。
- 1599年:島津忠恒、50石寄進
- 1601年:200石寄進。
- 1602年:島津義久、社殿修造
- 1602年12月:100石寄進
- 1742年5月:この時点で868石という。
- 1850年:社殿再興。
- 1885年(明治18年)4月22日:国幣中社に列格[1]。
(『日本歴史地名大系』ほか)
境内
- 本社:
- 可愛山陵:
- 中陵神社:
- 端陵神社:
- 若宮四所宮:
- 武内宮:
- 祖霊社:
- 二十四社:
- 稲荷神社:
- 興玉神社:
- 保倉神社:
- 高良神社:
- 中央神社:
- 早風神社:
- 門守神社:
- 門守神社:
- 九樓神社:
- 守公神社:
- 船間島神社:
- 川合陵神社
組織
執印、権執印などがあった。 執印は五大院院主を兼ね、俗体で、鎌倉時代からは惟宗氏が世襲。 権執印は五大院政所を兼ね、僧体。
執印
- 兼信()<>:紀氏宮里家の祖。
- 信経()<>:宮里家
- 桑田信包()<-1164->:
- 惟宗康友()<1203?->:惟宗氏初代。
- 惟宗康村()<>:康兼。
- 迎阿()<-1243->:最初は国分友久の妻。のち惟宗康村の妻。
- 惟宗友成()<-1256->:迎阿の長男。
- 惟宗康秀()<>:迎阿の三男。重兼、道教。
- 惟宗重友()<>:道厳。
- 惟宗友郷()<>:友里。教忍。
- 惟宗友雄()<-1338->:
- 惟宗友令()<-1403->:
権執印
権執印家と称す。紀氏。僧形だが世襲。
- 正信()<>:権執印家の祖とされる。1135年(保延1年)時点で五大院政所職にあった。
- 勝暹()<>:権執印にあったと推定される。
- 覚暹()<-1195->:
- (覚弁)()<>:執印の職に就任。
- 安慶()<>:建久年間。権執印と推定。
- 永慶()<-1239->:
- 妙慶()<-1278->:永慶の子。1326年(嘉暦1年)、良暹に譲状を作成。
- 良暹()<-1333->:妙慶の子。1336年(延元1年/建武3年)、足利尊氏から肝付討伐の催促を受けている。
- 俊正()<-1342->:良暹の子。
宮司
代数 | 名前 | 生没 | 在職 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 本田穂積 | 生没年不詳 | 1885-1890 | 韓国宇豆峰神社の神主。霧島神宮少宮司。教導職大講義。鵜戸神宮禰宜。1885年(明治18年)4月28日、新田神社宮司(官報)。1890年(明治23年)9月29日退任。 |
2 | 権執印正幸 | ?-1912 | 1890-1912 | 新田神社旧社家の権執印家の出身。教導職中講義。1873年(明治6年)大晦日の大教院焼失時に宿直だったらしい([2]、大教院火災詳記[3])。1873年(明治6年)6月8日、浅間神社禰宜。7月4日退任。1874年(明治7年)2月23日から1877年(明治10年)12月23日まで霧島神宮主典。1885年(明治18年)6月2日、新田神社禰宜。1890年(明治23年)9月29日、新田神社宮司(官報)。1893年(明治26年)正七位。1899年(明治32年)従六位。1905年(明治38年)正六位。1906年(明治39年)勲六等。1912年(大正1年)10月1日死去(官報)。従五位。「新田宮実績明細書」[4] |
3 | 本田豊 | 生没年不詳 | 1912-1914 | 1903年(明治36年)3月11日、竈門神社宮司。1912年(大正1年)10月22日(23日とも)、新田神社宮司(官報)。1914年(大正3年)4月14日、退任。1915年(大正4年)1月30日、神宮神部署主事。神宮神部署高知支署長[5]。著書『竈門山記』。 |
4 | 浜田幸雄 | 生没年不詳 | 1914-1925 | 西南戦争に従軍か[6]。水引村村長となり、1891年(明治24年)11月、同村が東西に分割され、東水引村村長になったとみられる[7][8][9][10]。上甑村村長か[11]。1902年(明治35年)以前に新田神社禰宜[12]。1914年(大正3年)4月14日、新田神社宮司(官報)。1925年(大正14年)6月30日休職。7月31日退任(官報)。神鏡碑銘[13]。憲春法印之碑銘[14]。肖像写真[15]。 |
5 | 平部正人 | 1893-? | 1925-1929 | 宮崎県榎原神社の社家。1874年(明治7年)生[16]。1893年(明治26年)7月、国学院卒業。1894年(明治27年)神職となる。1902年(明治35年)榎原神社社司。1920年(大正9年)6月12日、奏任官待遇[17]。1921年(大正10年)5月、全国神職会評議会副議長[18]。1925年(大正14年)6月30日、新田神社宮司(官報)。正七位。1929年(昭和4年)8月2日退任[19] |
6 | 種子田八雲 | 1885-1978 | 1929-1972 | 1885年(明治18年)生。1910年(明治43年)皇典講究所神職養成部卒。同年、霧島神宮主典。1912年(大正1年)新田神社主典。1913年(大正2年)松尾神社社司。1914年(大正3年)、新田神社禰宜。1920年(大正9年)霧島神宮禰宜。1927年(昭和2年)8月13日、枚聞神社宮司。1929年(昭和4年)8月24日、新田神社宮司。1936年(昭和11年)皇国幼稚園を開設。1942年(昭和17年)大日本神祇会評議員。1946年(昭和21年)鹿児島県神社庁初代庁長。1972年(昭和47年)1月10日、新田神社宮司退任。1978年(昭和53年)2月3日死去。 |
7 | 種子田実 | 1915-1986 | 1972-1986 | 1915年(大正4年)生。1938年(昭和13年)神宮皇学館本科卒業。1941年(昭和16年)厳島神社主典。1946年(昭和21年)厳島神社禰宜。1948年(昭和23年)新田神社禰宜。1950年(昭和25年)大神神社禰宜。1972年(昭和47年)1月11日、新田神社宮司。1986年(昭和61年)7月2日死去。 |
8 | 種子田敬 | 1987- | 1974年(昭和49年)立命館大学卒業。1987年(昭和62年)11月19日、新田神社宮司。鹿児島県神社庁長。 |
画像
資料
- 『鹿児島県史料集』
- 『古事類苑』「新田神社」[23]
- 1939「可愛山陵と新田神社」[24]
- 『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』「新田神社」[25]
- 「東臼杵の經塚と新田八幡」[26]
- 『麑藩名勝考』「新田宮」[27]
- 日隈正守「新田宮・五大院の所領支配機構」[28]
- 「新田神社と可愛山陵」[29]
- 野崎道雄『新田神社の研究』