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串木野神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年8月31日 (日)
串木野神社は鹿児島県いちき串木野市浜ケ城(薩摩国日置郡)にある招魂社。官祭招魂社。指定外護国神社。串木野招魂社、串木野護国神社。曹洞宗良福寺跡に建てられた。鹿児島藩の官祭招魂社と官修墳墓も参照。
目次 |
祭神
靖国神社誌では7柱[1]。「招魂社碑文」に次の7柱を刻む。
- 1長静吾連雄:新潟官修墳墓01-001。
- 2臼井道哉常徳:新潟官修墳墓01-002。
- 3児玉源兵衛実光:新潟官修墳墓09-102。
- 4池田半之助正康:高田官修墳墓・銘板1-010。
- 5宮之原弥兵衛茂次:新潟官修墳墓01-007。
- 6川添圧太郎武義:新潟官修墳墓01-008。
- 7児玉次郎兵衛実通:新潟官修墳墓01-010。
長谷場純孝(衆議院議長、1854-1914)、奥田栄之進(貴族院議員、1864-1945)も合祀する。
歴史
境内
- 本社
- 招魂社碑:現存不明。
- 長谷場純孝碑
- 慰霊之碑
- 「支那事変大東亜戦争戦没者君」碑
- 串木野招魂塚
資料
- 1962『串木野郷土史』
- 1984『靖国神社百年史 資料篇 下』[7]
- 所﨑平2021「串木野官祭招魂社のこと」『鹿児島民俗』160
招魂社碑文
「慶応三年将軍徳川慶喜辞職退去大坂城頗有不軌之跡越我藩遺府下既諸郷兵伐于京都串木野郷兵亦与為明年 正月慶喜以城而叛称兵伺京師我軍要撃于伏見鳥羽却之追北至八幡慶喜棄城東走既而朝廷亦発諸藩兵東征慶喜請降而其党松平容保等拠東北諸城不肯服於是我軍由白河越後二道而進賊抗所過諸険要邀拒之我軍連撃皆破之直薄若松城容保力竭出降余賊悉平十二月凱旋于京師是彼也官軍死傷亦多而串木野兵士戦亡者凡七人蓋於諸郷中尤為多夭戦死之多数雖由所敵之堅脆衆寡而串木野兵士之奮進不惜可以見矣嚮闔郷相誠設一社合祭之既文立碑於共側諸予書其由予為逝其略如是若夫戦亡人姓名則勤之於左方云 明治三年庚午夏六月下浣 学頭助 今藤秀鐘謹撰」
(試訳。書き下し文。原文に誤字誤植があると思われ、一部意味が通らない) 「慶応三年、将軍徳川慶喜、職を辞し大坂城を退去して、頗る不軌の跡有り。我藩、府下に遺す。既に諸郷兵、京都に伐し、串木野郷兵、また与に為す。明年正月、慶喜、城を以て叛し、兵を称して京師を伺ふ。我軍、伏見・鳥羽に要撃して之を却し、追北して八幡に至る。慶喜、城を棄て東に走る。既にして朝廷、また諸藩兵を発して東征す。慶喜、降を請ふと雖も、其の党松平容保等、東北諸城に拠りて服せず。是に於て我軍、白河・越後二道より進む。賊、所過の諸険要に抗して之を邀拒す。我軍、連撃して皆之を破り、直に若松城に薄る。容保、力竭して出で降り、余賊悉く平らぐ。十二月、京師に凱旋す。是れ彼なり。官軍、死傷亦多く、而して串木野兵士、戦亡する者凡そ七人、蓋し諸郷中、尤も多し。夭戦死の多数、所敵の堅脆・衆寡に由るといへども、串木野兵士の奮進不惜なること、以て見ん可し。嚮に闔郷、相誠を設け、一社を合祭す。既に文、碑を共側に立つ。諸予、其の由を書す。予、之を為逝す。其の略、是の如し。若し戦亡人の姓名は、則ち左方に勤むと云ふ。」