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八十島祭関連旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年1月11日 (金)
八十島祭(やそしままつり)は古代、天皇即位に際して即位後に難波津で行われた国土の神霊を祀る祭祀である。国魂信仰も参照。
目次 |
歴史
即位礼の翌年に行われた。 850年(嘉祥3年)9月8日、文徳天皇の即位に際して行われたのが記録に残る初出だが、より古い時代から原型となる儀式はあったとの見方もある。 後堀河天皇の1224年(元仁1年)12月を最後に断絶した。
難波宮行幸と関連して捉える説もある。
祭神
祭神は以下のとおりである。
梅田義彦の研究によると、最初は「熊河尻」を祭場としていたが、のち「住吉代家浜」に移ったという。移ったのは後朱雀天皇の長暦年間のときの祭祀が始まりで、その後も熊河尻で行われることがあったが、後白河天皇のころには住吉に固定されていたという。
一覧
資料
古典籍
- 『古事類苑』[1]
文献
- 黒田慶一2011「難波「八十嶋」と神崎川・猪名川下流域」[2]
- 阪下圭八1969「神功皇后伝説の形成 八十島祭との関連において」
- 阪下圭八1970「八十島祭史料年表〔嘉祥3〜元仁元年〕」
- 阪下圭八1973「八十島祭の影」
- 阪下圭八1973「八十島祭の影 承前」
- 岡田精司1979「奈良時代の難波行幸と八十島祭」
- 岡田精司1987「祭式 八十島祭をめぐって」
- 岡田精司1970「即位儀礼としての八十島祭」
- 伊野部重一郎1986「「国生み神話」成立の上限と八十島祭り」
- 久富木原玲1991「神功、応神神話と八十島祭 武内宿禰の造型を通して」[3]
- 若井敏明2000「八十島祭の再検討」
- 羽床正明2014「摂津国難波津の祭祀・八十島祭の草創について 古墳時代成立説への批判」
- 榎村寛之2006「古代都市難波の祭祀」
- 栄原永遠男2006「行幸からみた後期難波宮の性格」
- 角正方1929『八十島祭考証』
- 青木真知子2004「「難波の祓」考」[4]
- 滝川政次郎1966「八十嶋祭と陰陽道1」
- 滝川政次郎1966 「八十嶋祭と陰陽道2」
- 滝川政次郎1966 「八十嶋祭と陰陽道3」
- 滝川政次郎1966「八十嶋祭の祭場「熊川」について」
- 田中卓1977「再び八十嶋祭について 岡田精司氏説の批判」
- 田中卓1956「八十嶋祭の研究」
- 田中卓「大嘗祭と八十嶋祭」
- 工藤浩2000「神功皇后伝説と八十嶋祭」
- 上井久義「八十嶋祭の成立」
- 梅原忠治郎1934『八十島祭綱要』
- 勝谷透1943「難波津と八十島祭」『大阪文化史研究』
- 生田目経徳1939「八十島祭」『国体明徴』
- 梅田義彦1942「大嘗祭と八十島祭」『神道思想の研究』
- 小林敏男1995「八十嶋祭と王位継承儀礼」
- 大原眞弓2017「平安時代前期の即位儀礼の変化 一代一度と称される制度の始まり」