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南洋神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年5月30日 (金)
南洋神社(なんよう・じんじゃ)は日本領南洋群島パラオ諸島コロール島アルミズ高地にあった伊勢信仰の神社。祭神は天照大神。官幣大社。植民地創建神社。日本領南洋諸島の総鎮守。廃絶。
目次 |
歴史
創建
- 1936年(昭和11年):南洋庁主導で南洋神社奉賛会を設立。これまで南洋群島総鎮守の創建は何度か計画されたが実現しなかった。しかし1940年(昭和15年)の紀元2600年を前に具体化した。
- 1939年(昭和14年)5月頃:準備が本格化。
- 1939年(昭和14年)8月4日:東京で南洋庁、内務省神社局、拓務省、神職、皇典講究所、宮内省の関係者が懇談している。
- 1940年(昭和15年)2月11日:昭和天皇から祭神を天照大神とする南洋神社を創立し、社格を官幣大社とする旨が示された(2月13日・拓務省告示第1号[1]。中島論文では天皇の意思表明を2月1日とし、祭神社格が決定したのが2月13日とする。拓務大臣謹話が2月1日か)。
- 1940年(昭和15年)4月20日:鎮座祭を11月1日、例祭を毎年10月17日とすることを発表(拓務省告示第2号[2])。
- 1940年(昭和15年)5月13日:南洋庁に臨時造営事務所が設置された[3]。造営は国費と奉賛会費で工事を進めた。設計は小林福太郎[4]。
- 1940年(昭和15年)10月3日:「官幣大社樺太神社及官幣大社南洋神社主典の定員及出仕に関する件」「官幣大社樺太神社及官幣大社南洋神社神職俸給規則」「官幣大社樺太神社及官幣大社南洋神社職員旅費規則」官幣大社南洋神社鎮座祭式及祝詞」を制定[5]
- 1940年(昭和15年)10月9日:会計規則」を制定[6]
- 1940年(昭和15年)10月19日:宮司任命[7] 。東京の東伏見稲荷神社で奉仕する神職の養成が行われたが、講習生4人とも採用されなかった。拓務大臣から宮司に任命された宮地威夫が神職を独自に選任したためという。
- 1940年(昭和15年)10月17日:宮中から御神体が出発し、勅使伊藤博精公爵[8]と共に航路で南洋群島に向かった。
- 1940年(昭和15年)11月1日:鎮座祭が行われた。鎮座祭や遷座祭は通常は夜間に行われるが、ここでは午前9時から行われたらしい。翌2日は奉祝祭、3日には神輿渡御があった。
敗戦
- 1944年(昭和19年)3月:米軍の空襲にさらされるようになった。
- 1944年(昭和19年)11月:バベルダオブ島の大和村に仮殿を建立し、遷座した。
- 1945年(昭和20年)5月17日、空襲の至近弾が御神体不在の南洋神社社殿を襲い、本殿および末社・祭器庫が炎上。
- 1945年(昭和20年)9月11日:米軍の了解を得て、社殿を奉焼した。
- 1945年(昭和20年)11月17日、外務省は関東神宮と共に南洋神社を法的に廃止した(11月22日付・外務省告示第11号[9])
- 1946年(昭和21年)1月:大和村の仮殿でも昇神祭を行い、社殿を奉焼した。御神体は米国の許可を得て持ち帰り、宮内省に届けられたという。また神宝が本土に持ち帰られ、越谷・久伊豆神社境内の南洋神社鎮座跡地遥拝殿に奉安されている。
(小笠原省三『海外神社史』、中島三千男2004「旧南洋群島の神社跡地調査報告」ほか)
境内
- 本社:神明造の社殿。ただし大鳥造(大鳥大社本殿)が意識されたという。
- 金比羅宮:摂社。
組織
宮司
- 宮地威夫(1886-1955)<1949-1943>:昭和前期の神道家・神職。宮地厳夫(1847-1918)の子。1886年(明治19年)3月30日生。1940年(昭和15年)10月29日、南洋神社宮司。1943年9月13日、寒川神社宮司[10]。戦後、神仙道本部初代総裁(宮地水位から数えて三代目)。1955年(昭和30年)4月27日死去。
- 別所猶一(1894-?)<1943-1945>:兵庫県出身。1894年(明治27年)生[11]。1916年(大正5年)国学院大学神職養成部卒。1920年(大正9年)、鎮座前の明治神宮出仕となり、内務省内の明治神宮仮社務所に務める。1932年(昭和7年)明治神宮禰宜。1936年(昭和11年)10月13日、護王神社宮司。1943年(昭和18年)9月13日南洋神社宮司[12]。1945年(昭和20年)11月17日、南洋神社廃絶。1946年(昭和21年)京都霊山護国神社宮司。1947年(昭和22年)3月12日、梨木神社宮司。1954年(昭和29年)鵜戸神宮宮司。1967年(昭和42年)1月20日退任。
画像
資料
- 『南洋神社御鎮座祭記念写真帖』
- 「官幣大社南洋神社奉仕ノ顛末報告書」