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川辺護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年11月9日 (日)
川辺護国神社は鹿児島県南九州市川辺町平山(薩摩国川辺郡)にある招魂社。官祭招魂社。指定外護国神社。初名は双忠祠。川辺招魂社。鹿児島藩の官祭招魂社と官修墳墓も参照。
目次 |
祭神
靖国神社誌では2柱[1]
歴史
- 明治3年4月:阿多源七が郷人にはかって石祠を建立。「諏訪下南方神社第一鳥居わき」。
- 大正2年11月28日:官祭招魂社。
- 大正8年8月:移転に着手。
- 大正9年4月23日:南方神社の横に遷座。諏訪公園の一画。
- 昭和14年4月1日:川辺護国神社と改称。
- 昭和40年6月11日:現在地にコンクリート造りの社殿を造営、遷座祭
境内
- 本殿
- 双忠祠碑:明治3年4月建立。碑銘[2]。
- 長井正蔵君松田三太郎君碑:西南戦争戦死者。明治12年8月建立。碑銘[3]。
- 池田君紀念碑:明治16年2月建立。池田平之進。明治15年の朝鮮壬午軍乱で戦死。
- 「みたまよやすらかに」碑:平成9年2月建立。副碑あり。
- 「護国神社建設記念碑」:昭和40年6月12日建立。碑銘[4]
- 「精研学舎跡」碑:川辺町郷土史[5]。亡友祠、「亡友紀念碑」:明治39年8月25日建立。
- 石祠:明治23年7月30日建立。
- 川辺郷招魂塚:薩軍の招魂社。石祠。戦亡碑、丁丑役殉難表、丁丑役五十年記念祭合祀表、建設人碑、建設人名燈籠がある。碑銘[6]
- 末弘武輔墓:現存未確認。碑銘[7]。
画像
資料
- 「川辺護国神社関係書類綴」:昭和24年。鹿児島県郷土資料総合目録
- 1953『川辺町郷土誌 昭和28年版』「奥州戦争と従軍者」[8]
- 1976『川辺町郷土史』「護国神社」[9]
- 1997『川辺町郷土史 追録』「護国神社」[10]
- 『靖国神社百年史 資料篇 下』[11]
双忠祠碑
(試訳。書き下し文) 慶応戊辰春正月、徳川慶喜、松平容保等、叛して京畿に敗れて東に走る。是に於て官軍東伐し、我藩本府より外城に至るまで征行する者凡そ七千余人。而して川辺兵の戦没者二人あり。曰く末弘君、曰く日置君。邑宰阿多君、邑人と議して二人の為に本邑諏方神祠の側に一祠を立てて之を祀る。乃ち人を遣し余に請いて其の事を石に書せしむ。末弘君、諱は時淳、武輔と称す。慶応丁卯秋八月、番兵隊半隊長を以て京師に赴き、明年徳川氏の乱に三位中将西園寺某、鎮撫使を以て丹波に赴く。君従つて行き三月京師に還る。六月江戸に如(ゆ)く、時に慶喜に既に降り、七月進んで奥州の賊を撃つ。是月十三日、官軍磐木平城を攻む。君、賊と岩前郡中山に戦い、砲丸に中つて死す。年二十三、其地藤間村安養院に葬る。日置君、諱は俊次、藤左衛門と称す。戊辰秋八月、本邑兵一小隊に属し、海を航して越後に赴く。新潟に抵り、賊を羽州関川村に撃つ。九月二十日、賊、牙営に逼り、勢甚だ危し、君、援に赴く。亦鉛に中つて斃る。年二十四、新潟寄居村白山に葬る。未だ幾もなく、容保降り、東方悉く平ぐ。嗟夫、邑人二人の為に祠を設けて祀る所以は、王事に死するを喜んで、忠節を勧め、其の風教を補う有るこ と夫豈小ならんや。余辞せずして其梗概を書すること此くの如し。 明治三年庚午夏四月中浣 麑藩学頭助今藤惟宏謹撰 肥後盛壮謹書 石工 久松林左衛門 (川辺町郷土誌[12]をもとに、石碑実物と照らして補足修正した)
(試訳。現代語文)慶応4年春正月、徳川慶喜や松平容保らは謀反を起こして京畿で敗れ、東国へ逃走した。これに対して官軍は東征を行い、我が藩では本城から外城に至るまで、およそ七千余名が出陣した。その中で、川辺の兵から戦死者が2人出た。すなわち末弘君と日置君である。
地頭の阿多君(阿多源七)は村人と相談して、この2人のために川辺村の諏訪神社の側に祠を建て、祀ることにした。そして人を遣わして私に頼み、その事を石に刻ませた。
末弘君、諱は時淳、武輔と名乗る。慶応3年秋8月、番兵隊の半隊長として京都に赴き、翌年、徳川氏の乱に際して三位中将西園寺某(西園寺公望)が鎮撫使として丹波に出向くと、末弘君も従い、3月に京都へ帰還した。6月には江戸に進発したが、この時には慶喜は既に降伏していた。さらに7月、進軍して奥羽の敵軍を討った。同月13日、官軍が磐城平城を攻めたとき、末弘君は磐前郡中山で敵軍と戦い、砲弾に当たって戦死した。享年23。その地の藤間村安養院に葬られた。
日置君、諱は俊次、藤左衛門と名乗る。慶応4年秋8月、川辺村の兵の一小隊に属して海を渡り越後に向かった。新潟に到着し、敵軍を羽州関川村に討った。9月20日、敵軍が陣営に迫り、形勢は大いに危うくなった。日置君は援軍に赴き、鉛玉に当たって戦死した。享年24。新潟寄居村白山に葬られた。
ほどなくして松平容保は降伏し、東国は全て平定された。ああ、村人がこの2人のために祠を建てて祀ったのは、彼らが王事に死んだことを喜び、忠節を勧め、その風俗教化を補うためである。その意義は小さいものではない。そこで私は辞退せず、そのあらましをこのように記した。