|
ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
望叢祠
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年12月9日 (火)
望叢祠は中国四川省成都市郫都区郫筒街道にある古蜀国帝王の陵墓・霊廟。望帝杜宇と叢帝〓霊(鱉霊、鼈霊)を祀る。中国歴代帝王の陵寝。 望叢墓祠、岷陽古帝祠、岷陽古帝墓祠とも。 創建年代は不詳。もともとは望帝廟と叢帝廟は独立して別の場所にあった。
歴史
- 不詳:望帝廟は玉塁山の麓、現在の都江堰二王廟のあたりにあったとされる。
- 南北朝時代:益州刺史の劉季連は望帝廟を郫県に移し、叢帝廟に合祀した。(陵を改葬したということか?はっきりしない)
- 1041年(康定2年):張兪の請願で趙可度が修繕。2月5日起工か。(蜀望叢帝新廟碑記)
- 1052年:陵墓を修造。浄林寺を復興させ、寺僧に管理させる(祠廟を建てたとは書かれていない)。9月14日、陳皐撰「杜宇鱉霊二墓記」碑を建立。
- 明末清初:戦火で焼失。望帝陵と叢帝陵だけが残った。
- 1747年:知県李馨、伐採禁止令で墓を保護
- 1834年:再建。
- 1844年4月:「岷陽新廟望叢古帝碑」を建立
- 1907年:東側に「聴鵑楼」建立。
- 1915年:庭園を造成
- 1919年:四川省督軍の熊克武、「古望帝之陵」碑と「古叢帝之陵」碑を建立。
- 1969年:文化大革命で石碑を破壊
- 1982年:修復を開始
- 1983年:「望叢賽歌会」再興
- 1993年:コンクリート造の祠殿を建立か
- 2025年6月11日:大規模な空間整備を実施。古蜀五祖史話をモチーフとした像を門前に建立した。(四川オンライン[1][2])
資料
- 『岷陽前後志』:基礎文献。1834年「杜主開明前志」と1836年「岷陽古帝墓祠後志」から構成。『宗教書籍規範索引(CRTA)』[3]。ウィキメディア[4]
- 「蜀望叢帝新廟碑記」:張兪撰。『郫県志』[5]。Wikimedia Commons[6]
- 「杜宇鱉霊二墓記」[7]:陳皐撰。1052年9月14日。Wikimedia Commons[8]。
- 「岷陽新廟望叢古帝碑」:張星舜。1844年4月。『岷陽前後志』所収
- 「追復崇徳祠祀田記」:1860年11月。Wikimedia Commons[9]
- 「成都望叢祠の更新改造ー中国建築西南設計研究院」[10][11]
- 百度百科[12]
- 中文Wikipedia[13]
杜宇鱉霊二墓記
- 原文:戦国時、蜀災昏䠟、杜宇君於蜀、不能治、挙荆人鼈霊治之、水既平、乃禅以位、死皆葬於郫、今郫南一里、二冢対時、若邱山、独鼈霊墳隷浄林寺、僧夷其崇、為台観、隠士張兪懼其遂湮没、請於郡而碑之、因置祠其上、与杜宇岡勢相及、宇之墳尤盤大、民菑畬之、其来遠矣、皇祐壬辰春、浄林僧死、寺籍為田、許氏(一作民)聖甸、而鼈霊墳与寺俱化、為民畝、張兪聞之、建言於県尹虞曹外郎郭公、公愀然動色、駕而省之、明日進士杜常等五十八人、以状理於庭、公報曰、昔者七国相血生民、肝脳塗地、独杜宇亡戦争之競、有咨俞之求、以拯斯民、雖鼈霊均洪水之功、微宇不立、議其賢、則杜宇居多、載其烈、則鼈霊為大、二人嗣興、其舜禹之業、九之一焉、況勤民禦災、皆載祀典、微此則古之聖賢暴於原莽、而吾不之知矣、於是乎、具不可籍之議、聞於郡、郡嘉其請俾復其寺、訪名僧以主之、得景徳寺禅者垂白焉。好静退、能禅寂、邑人所仰嚮、公於是命之、因尽域、二墳隷於寺、命刻石志其事、庶来者知二人有大道西土、宜与恵無窮、皇祐四年九月一十四日記
- 書き下し文:戦国の時、蜀災いに昏(くら)み䠟(みだ)る。杜宇君、蜀に於いて治むる能はず。荊人の鼈霊を挙げてこれを治めしむ。水既に平ぎ、乃ち位を禅(ゆづ)る。死して皆郫に葬らる。今、郫の南一里、二冢時を対して、邱山(きゅうざん)のごとし。独り鼈霊の墳は浄林寺に隷す。僧夷、之を崇めて台観を為す。隠士張兪、其の遂に湮没せんことを懼れ、郡に請ひてこれに碑す。因りて祠を其の上に置く。杜宇の岡勢と相及ぶ。宇の墳は尤(もっと)も盤大にして、民畬(や)し之に菑(う)へ、その来ること遠し。皇祐壬辰の春、浄林の僧死し、寺籍田と為る。許氏(または民)これを聖甸(せいてん)とし、而して鼈霊の墳と寺と倶に化して民畝(みんぼう)と為る。張兪、之を聞き、県尹・虞曹外郎郭公に建言す。公愀然として色を動かし、駕してこれを省(み)る。明日、進士杜常等五十八人、状を以て庭に理(ただ)す。公報じて曰く、「昔、七国相い争い、生民の肝脳地に塗る。独り杜宇のみは戦争の競い亡く、咨俞(しゆ)の求むる有りて斯の民を拯(すく)へり。鼈霊も洪水の功を均しくすと雖も、宇微(な)ければ立たず。其の賢を議すれば、則ち杜宇居ること多し。其の烈を載すれば、則ち鼈霊大なり。二人相ついで興り、其の舜禹の業の九の一たる焉。況んや民を勤め災を禦ぐこと、皆祀典に載す。これ無くんば則ち古の聖賢原莽に暴(さら)されて、而して吾知らざるなり。」。是に於いて、不可籍の議を具(つぶさ)にして、郡に聞ゆ。郡其の請を嘉して俾(すなは)ち其の寺を復せしむ。名僧を訪い之を主とせしむ。景徳寺の禅者、垂白なるを得たり。静退を好み、禅寂する能く、邑人の仰嚮する所なり。公是に於いて之を命ず。因りて域を尽くし、二墳を寺に隷せしむ。石を刻して其の事を志(しる)さしむ。庶(こいねが)はくは来者(らいしゃ)二人の大道西土に有るを知り、恵無窮に宜しからん。
- 試訳:戦国時代、蜀の国には災害が多く、政治は混乱していた。蜀の君主であった杜宇は国をうまく治めることができなかったため、荊の出身者である鼈霊を擁して治水を任せた。大洪水が治まり、ついに杜宇は位を鼈霊に譲った。両者が亡くなるといずれも郫に葬られた。現在、郫の南一里の地に、二つの墓が並んで丘のように並び立っている。うち、鼈霊の墳墓のみは浄林寺の管理となり、僧の夷はこれを尊んで高台の観所とした。しかし隠者の張兪は、このままでは墓が埋もれて失われることを恐れ、郡に願い出て墓碑を立てた。さらに祠を建て、杜宇の墓の丘と並び合う景観を成した。杜宇の墓はとくに大きく、古くから民が開墾して耕作してきたものである。皇祐壬辰(皇祐4年、1052年)の春、浄林寺の僧が亡くなり、寺の籍は田地とされ、許氏(あるいは民)がそれを「官の田」とした。そのため鼈霊の墓と寺はともに区画されて民の耕作地となってしまった。これを聞いた張兪が、県の長官である虞曹外郎・郭公に訴えた。郭公はこれを聞いて深く憂え、自ら現地を視察した。翌日、進士の杜常ら58名が訴状を携えて庁に集まった。郭公は答えて言った。「昔、諸国は互いに争い合い、民の犠牲は甚だしかった。だが杜宇だけは戦争を好まず、民の願いを受けてこの地を救った。鼈霊もまた洪水を治めた功績は大きいが、杜宇がいなければその功も成し得なかった。賢を論ずれば杜宇が勝り、功績を記すなら鼈霊が大きい。二人は相次いで現れ、舜や禹の治水の業の一部を成した者である。まして民を救い災を防いだことは祀典に残すべきことである。これを失えば古の聖賢は野に埋もれ、我らはその存在を知ることができなくなる。」。こうして、郭公は「田とすべきではない」との意見をまとめて郡に上申し、郡もこれを喜んで寺の復興を認めた。名僧を探して住持としたところ、景徳寺の白髪の禅僧を得た。この僧は静寂を愛し、修行に専心し、郷里の人々からの尊敬も厚かった。郭公は彼を住職に任じ、さらに境内の区画を整え、二つの墳墓を寺の管轄とした。さらに石碑を刻んでその経緯を記録させた。こうすることで、後世の人が、杜宇と鼈霊という二人の偉大な人物が西方の地にいたことを知り、永く恩恵を受けられるようにしたのである。