|
ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
金乃神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年6月18日 (水)
金乃神社(かねの・じんじゃ)は岡山県浅口市金光町大谷の金光教霊地にあった神社。金光教関連。祭神は大日〓貴尊・素戔嗚命・金山彦命・思金神。廃絶。金光教霊地奥城と背中を接するように鎮座していた。無格社(浅口郡誌[1])。金乃神社を含む広場のことを「祭典場」、「山上斎場」(1920年(大正9年)まで)などと呼んだという[2]。金神社、金之神社とも。
目次 |
歴史
- 1864年(元治1年)4月9日:金光大神、白川家から神拝式の許状・金神の宮建築の許可[3]。
- 1866年(慶応2年)9月10日:金光大神、橋本卯平に信者らの白川家入門を依頼[4]。
- 1866年(慶応2年)10月2日:金光大神、白川家から神拝の時に冠・布斎服・指貫を着用すること、また河内と称することを許可される[5]。
- 1866年(慶応2年)10月21日:橋本卯平、白川家雑掌林大和守に金神社建立について意向を伺い、内諾を得る[6]。
- 1866年(慶応2年)11月:金光大神、白川家への神主補任願提出にあたり、浅尾藩の添え状を得るために村役人に願書を提出[7]。
- 1866年(慶応2年)12月:金光大神、白川家への神主補任願提出にあたり、浅尾藩の添え状を得るための願書を藩庁に提出[8]。
- 1867年(慶応3年)2月10日:浅尾藩、添え状を郡奉行に下付。
- 1867年(慶応3年)2月13日:金光大神に神託。白川家への神主補任願提出のため、代理として石之丞を派遣し、川崎元右衛門・橋本卯平を添えるようにと。金光大神は金神広前では「京都御法」通りのことはできないと伝言を託す。
- 1867年(慶応3年)2月20日:代理人一行は上京して白川家と交渉。金光大神の伝言についての了承を得たという。
- 1867年(慶応3年)2月22日:金光大神、白川家に金乃神社神主に補任される。神社の起源はここにあるといえるが、「名義上、架空の金神社を立てたことに始まる。従って実際には建物は存在していなかった」という[9]。
- 1867年(慶応3年)4月:神社建立を浅尾藩に請願。
- 1868年(明治1年):明治維新。
- 1869年(明治2年)7月:金光大神、神仏分離の結果、村内の神社の神事を管轄することとなる。9月には氏神両社の神事を原田弥九郎に譲る。
- 1869年(明治2年)9月10日:社殿建築の工事を始める。
- 1871年(明治4年)10月15日:神社改正の結果、浅尾県庁より神職廃止を通達される。ただし神勤はこれまで通り。
- 1872年(明治5年)11月26日:金光大神、制度改正により神職の地位を失う。
- 1877年(明治10年)6月20日:金光萩雄、賀茂神社祠掌となる。
- 1877年(明治10年)6月:信者の有志が神社の存置運動を起こす[10]。
- 1878年(明治11年)8月:公認神社となり、「素盞嗚神社」と称したという[11]。
- 1879年(明治12年)7月28日:金光萩雄、教導職試補となる。
- 1883年(明治16年)6月29日:有志、素盞嗚神社を「金之神社」改称を岡山県に出願[12]。
- 1883年(明治16年)7月9日:大阪の亀田加受美(京都府が拠点か。のち大神教会長)、吉本清逸(のち崇明教会長)が南宮大社の分社ということにし、また大原美能理(のち神籬教会長、田村神社宮司)の『金神霊跡考』(不詳)を典拠に利用することを提案[13][14][15]。
- 1883年(明治16年)10月6日:<京都の田中庄吉が御金神社設立許可を得て布教を始める>
- 1883年(明治16年)10月10日:金光大神、死去。
- 1883年(明治16年)12月20日:佐藤範雄、神道事務局の野田菅麻呂(のち管長)と協議し、広島県下金乃神社信徒取扱願を広島県神道事務分局に出願[16][17]。
- 1884年(明治17年)1月15日:佐藤範雄、「金乃神社社務所」の名義で広島県下の信徒取締を委託される[18][19]。教会組織の始まりとされる。
- 1884年(明治17年)3月24日:素盞嗚神社の祭神増加と社号復旧願を岡山県に提出[20]。
- 1884年(明治17年)5月14日:「金之神社」の社号が許可され、祭神は大日〓貴尊・素戔嗚命・金山彦命・思金神となる[21]。
- 1884年(明治17年)11月20日:金光萩雄・佐藤範雄と神道事務局の野田菅麻呂が社務所で会談し、教会組織のあり方について協議する[22]。
- 1885年(明治18年)4月:「神道金光教会規約」制定し神道事務局に提出(6月2日認可)。第3条で「備中国浅口郡大谷村鎮座金之神社を尊信、毎日敬拝すべし」と定め、第22条で9月22・24日を「金乃神社大祭」、5月22・24日を「金乃神社中祭」、1月22日・24日を「金乃神社小祭」と定める[23]。
- 1888年(明治21年):「神道金光教会条規」制定。第30条に「備中国浅口郡大谷村木綿崎山鎮座金乃神社を尊信、毎日遥拝すべし」とあり、第32条に神道金光教会規約と同様に大祭・中祭・小祭を定める[24]。
- 1890年(明治23年)8月:本部教会所広前と金之神社改築を岡山県に出願[25]。岡本駒之助が奉仕。
- 1891年(明治24年):社殿造営。正確な日付は不明だという[26]。この時、初めて社殿ができたようだ。境内周辺は「山上斎場」と呼ばれて祭典に用いられた。
- 1897年(明治30年):境内に日清戦争戦没者のための「旌忠碑」を建立(現存せず)[27]。
- 1900年(明治33年)6月18日:内務省、金光教別派独立を認可。金乃神社とは制度上・教義上、無関係となったが境内地は引き続き祭典に用いられたらしい[28]。
- 1921年(大正10年)3月12日~13日:第31回定期議会で金之神社問題について議論[29]。
- 1921年(大正10年):大教会所新築。
- 1922年(大正11年)9月20日:奉賛会委員会、金之神社処理問題について管長に陳情書を提出[30]。
- 1932年(昭和7年)9月10日:佐藤範雄、『教祖立教と国家制度の沿革資料の大要』(『教祖立教と制度の沿革史要』)を浄書。「本教と金之神社との関係につきては、各自区々の解釈をなしつつあるも、未だ真に教祖の御神慮と其の沿革とを明かにしたるものなし」として概要を記す(本文未見)[31]。
- 1954年(昭和29年)1月:宗教法人法に基づく宗教法人となる。岡山県神社誌[32]。
- 2009年(平成21年):解体。
組織
祠掌・社掌・宮司
- 金光大神()<>:白川家から神主に補任される。
- 金光萩雄(1849-1919)<>:初代管長。金光大陣。
- 金光別弘(1900-1935)<>:金光萩雄の七男。金光家邦の弟。1900年(明治33年)生[33]。1920年(大正9年)金光中学校卒。1921年(大正10年)早稲田大学講習会文学科卒。皇典講究所神職養成部卒業。金乃神社社掌。1926年(昭和1年)10月11日、賀茂神社社掌を兼務[34]。金光教大教会所用掛、教義講究所講師(1925年(大正14年)~1932年(昭和7年)[35])、岡山県神職会講師を歴任。1928年(昭和3年)紺綬褒章。1935年(昭和10年)3月22日死去[36][37]。
- 金光家邦(1888-1988)<>:2代目管長。金光萩雄の子。1950年(昭和25年)1月8日、金光教教師を辞任。翌日、新教団「天地金光教」を設立。
- 金光公仲()<>:金光家邦の養子で、五辻隆仲の次男という。
画像
資料
- 杉原真一「金神社考」『金光教学(旧)』2
- 牟田満正1954「金之神社について」『金光教学(旧)』14 [38]
- 早川公明1978「金神社建築運動に関する一考察」『金光教学』18[39]
- 早川公明1982「「金之神社」考」『金光教学』22[40]
- 金光和道1999「神前奉仕開始後の広前の周辺―東長屋・「宮」建築など諸経費支出の背景―」『金光教学』39[41]
- 北林秀生2000「教団草創期における教義表明の諸相―佐藤範雄の主祭神表明の態度に注目して―」『金光教学』40[42]
- 加藤実・荒垣寧範2007「資料論考―浅尾藩領大谷村における氏神祭祀と神職金光河内」『金光教学』47[43]
- 藤本拓也2012「お知らせ体験の深まりに見る宮建築の移ろい―「神の頼みはじめ」とその無起源性をめぐって―」『金光教学』52[44]
- 三好光一2014「資料解題―管長家資料に見る神道金光教会設立初期の諸相」『金光教学』54[45]
- 山田光徳2016「神道金光教会における「祭典儀式」の経験とその意味」『金光教学』56[46]
- 岩崎繁之2022「金光大神における神社神職の活動の様相」『金光教学』62[47]