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伊勢神宮御用材大湊貯木場
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年5月5日 (月)
大湊貯木場は三重県伊勢市大湊町(伊勢国度会郡)にあった伊勢神宮の貯木場。大湊は伊勢神宮の外港として機能し、五十鈴川河口の左岸にあり、宮川ともつながる。阿場池跡。大湊小学校跡。「神宮式年遷宮御用材大湊貯木場跡」碑が立つ。隣には大綿津見神社がある。木曽で切り出され、美濃の錦織湊(岐阜県加茂郡八百津町)から海運で又木貯木場や桑名貯木場を経て大湊まで運ばれた御用材は、内宮用と外宮用に仕分けされ、内宮用は鹿海貯木場へ、外宮用は宮川貯木場へ回送された。御木曳行事では、ここで神領民に引き継ぎが行われ、その出発地にもなっていた。伊勢神宮関連旧跡。伊勢神宮御杣山も参照。
この地は五十鈴川と宮川が運ぶ土砂と伊勢湾の海流によって遠浅のデルタ地帯が形成され、製塩に適した環境となり、大塩屋御園が成立。外宮末社志宝屋神社が今もある。 海運の拠点であり、御用材だけでなく、各地の伊勢神宮の御厨(神領)から収められる貢租や神饌の集積地だった。海運の要衝として廻船が集まり、造船港ともなり、宇治郷・山田郷と共に発展した。中世の自治都市の一つとして近郷と共に「浜七郷」を形成した。近世には商港としての繁栄は鳥羽に奪われた。
歴史
- 1289年(正応2年):この頃には「大塩屋御園」が成立。
- 1338年(延元3年/暦応1年)9月:義良親王(後の後村上天皇)、宗良親王、北畠親房、北畠顕信、結城宗広らと共に大湊から東北に出航。近くに「義良親王御乗船地」碑がある。
- 1498年(明応7年):地震による高潮で1000軒が流出し、5000人が溺死したという。
- 1509年(永正6年):愛洲氏の侵攻に対して金1万匹を拠出して回避。経済力を蓄えていたことが分かる。
- 1522年(大永2年):連歌師の宗長は参宮のため、知多半島の野間から大湊に渡っている。この頃には大湊が伊勢神宮の海からの入口となっていたと考えられている。
- 1560年(永禄3年):この頃、自治都市として確立したとみられる。
- 安土桃山時代:豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して、九鬼氏の「日本丸」を大湊で建造。
- 近世:伊勢神宮領内の、山田に付属する町方として扱われる。
- 1733年(享保18年):山田奉行保科正純、「大湊波除堤」を築く。
- 1920年(大正9年):第58回式年遷宮の御樋代木は白鳥貯木場から大湊貯木場まで海路で運ばれた[1]。
- 1923年(大正12年):第58回式年遷宮の御木曳行事では、大湊貯木場は使用しない案もあったが、内宮御用材の奉曳団体への引渡を大湊貯木場で行った[2]。
- 1961年(昭和36年):埋め立て開始
- 1968年(昭和43年):埋め立て完了
- 1972年(昭和47年)9月:記念碑建立