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伯耆・大山寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年8月5日 (土)
大山寺(だいせんじ)は、鳥取県西伯郡大山町の伯耆大山にある天台宗寺院。天台宗延暦寺派別格寺。大神山神社の神宮寺。 鳥取県西伯郡大山町大山9。
組織
歴代学頭
本坊西楽院に住した。大山寺座主とも称したか。2世からは延暦寺や寛永寺の僧が任命された。1710年(宝永7年)6月以後は滋賀院門跡が学頭を務め、留守居・代官が派遣された。西楽院を政庁とする学頭・留守居・代官・三学頭代という支配機構が成立。
- 大山諸事覚[1]
世数 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 豪円 | 1535-1611 | 1594-1611 | 大山寺中興。備前・金山寺中興。伯耆出身。1535年(天文4年)生。俗姓は中津尾。初名は円智。延暦寺地福院、延暦寺習禅院に住す。1568年(永禄11年)頃金山寺住職に就任。1594年(文禄3年)、大山寺に帰り西楽院に入り一山の実権を掌握。義講(擬講?)、已講を経て探題。宝菩提院を相続。豪円と改名。1605年(慶長10年)、権僧正。1611年(慶長16年)6月5日死去。 |
除歴 | 岩本院 | 1611-1613 | 豪円の弟子。1611年(慶長16年)から1613年(慶長18年)まで大山寺学頭。一山僧侶から排斥され幕府から罷免される。 | |
2 | 久運 | ?-1626 | 1613-1626 | 延暦寺の僧。延暦寺薬樹院に住したか。已講。1613年(慶長18年)学頭就任。大山寺には常住せず。1626年(寛永3年)閏4月4日、比叡山東坂本で死去。 |
3 | 天海 | 1536-1643 | 1626-1643 | 1536年(天文5年)生。1626年(寛永3年)7月に大山寺学頭を兼務。7月15日、妙浄院を留守居代官に任命する。1643年(寛永20年)10月2日死去。 |
4 | 胤海 | 1613-1689 | 1643-1679 | 天海の直弟子。寛永寺学頭。施薬院宗伯の子。左大臣花山院定好の養子。1624年(寛永1年)梶井宮最胤法親王に師事し滋賀院で剃髪。1626年(寛永3年)天海に師事[2]。1628年(寛永5年)比叡山より寛永寺に戻り、1630年(寛永7年)寛永寺涼泉院を創建。1643年(寛永20年)(1631年(寛永8年)とも)から1679年(延宝7年)5月まで大山寺学頭。1656年(明暦2年)、大山寺に来山[3]。1661年(寛文1年)権僧正。1666年(寛文6年)僧正。1675年(延宝3年)涼泉院と大山寺を譲り、凌雲院3世に転じる。1677年(延宝5年)から1682年(天和2年)まで羽黒山執行。1682年(天和2年)、凌雲院と羽黒山を引退して延暦寺薬樹院3世。1685年(貞享2年)薬樹院も退任。1689年(元禄2年)4月7日死去。77歳。1690年(元禄3年)12月29日、贈大僧正。延暦寺恵心院、首楞厳院も兼務。檀那院、偏知院と号す。『東塔五谷堂舍並各坊世譜』[4] |
5 | 公侃 | 1640-1690 | 1679-1689 | 池田輝澄の六男。徳川家康の孫。1640年(寛永17年)生。1650年(慶安3年)9月、淳光院(鳥取東照宮別当の因幡・大雲院)で剃髪。同寺の開山ともされる。檀那院胤海に師事。比叡山西谷総持坊で修行。城南院と号す。梶井宮雲覚法親王の院家となる。1675年(延宝3年)寛永寺涼泉院に住す。1679年(延宝7年)5月、大山寺学頭。1683年(天和3年)9月14日、大山寺に滞在。1690年(元禄3年)5月6日死去[5]。実成院、本実成院と号す。 |
6 | 最純 | ?-1710 | 1690-1694 | 寛永寺執当。浅草寺別当5世。1690年(元禄3年)9月から1694年(元禄7年)まで大山寺学頭。1710年(宝永7年)2月13日死去。大覚王院と号す。(略歴は浅草寺#組織を参照) |
7 | 常然 | ?-1717 | 1694-1703 | 寛永寺執当。寛永寺護国院に住す。1694年(元禄7年)9月から1703年(元禄16年)まで大山寺学頭。権僧正。1717年(享保2年)3月20日死去。大円覚院、速成院と号す。 |
8 | 実興 | 1703-1710 | 寛永寺執当。寛永寺常照院に住す。1703年(元禄16年)9月から1710年(宝永7年)まで大山寺学頭。1707年(宝永4年)根津神社別当昌泉院に住す。5月、僧正。十住心院。1710年(宝永7年)5月、大山寺学頭を退任(6月22日、輪王寺宮の支配となる)。大慈雲院と号す。僧正。 |
歴代住職
- 大舘禅空:
- 大舘禅雄:自坊は洞明院