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佐古招魂社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年3月23日 (土)

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1883年(明治16年)12月頃撮影

佐古招魂社は長崎県長崎市西小島にあった招魂社官祭招魂社佐古官修墳墓併設。近くにあった梅ケ崎招魂社に合併移転して長崎県護国神社となった。梅ケ崎招魂社には梅ケ崎官修墳墓もあった。

目次

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資料

公文書

  • 『太政類典』
    • 1875年(明治8年)3月22日「蕃地ニテ病没ノ者長崎梅ケ崎ニテ招魂祭施行」[1]、草稿[2]
    • 1881年(明治14年)3月7日「長崎県下佐古墓地中ヘ台湾役死亡ノ者合葬更ニ招魂社ト為ス」[3]
    • 1881年(明治14年)5月23日「長崎県下佐古墓地中ヘ台湾役死亡ノ者合葬費渡方并墓碑撰文筆者ヲ定ム・三条」[4]
    • 1881年(明治14年)6月20日「長崎県下佐古墓地ヘ台湾死亡ノ者合葬ニ付陸海軍両省於テ祭典執行」[5]
    • 1881年(明治14年)10月31日「長崎県下佐古軍人等合葬費用年度更訂」[6]
  • 『公文録』
    • 1875年(明治8年)3月「古海中秘書長崎梅ケ崎祭典ニ付祭主隨行下命ノ儀達」[7]
    • 1875年(明治8年)3月「五辻式部助長崎梅ケ崎祭典ニ付為勅使参向御達」[8]
    • 1875年(明治8年)3月「五辻式部助長崎梅ケ崎祭典ニ付祭主并随行官員旅費日当別途御渡方伺」[9]
    • 1875年(明治8年)3月「高柳中佐外二名西郷中将長崎梅ケ崎祭典ノ節祭主ノ儀下命ニ付随行ニ付達」[10]
    • 1875年(明治8年)3月「西郷中将長崎梅ケ崎祭典ニ付祭主下命ノ儀達」[11]
    • 1875年(明治8年)3月「西郷中将長崎梅ケ崎祭典ノ節祭主ノ儀下命ニ付達」[12]
    • 1875年(明治8年)4月「長崎梅ケ崎祭典済届」[13]
    • 1881年(明治14年)3月「長崎梅ケ崎ニ於テ台湾ノ役戦死病没者改葬始末ノ件」[14]
    • 1881年(明治14年)5月「長崎県下佐古招魂社ヲ墓碑ニ改正ノ件」[15]
    • 1881年(明治14年)5月「長崎県下佐古墓地墳墓合葬ニ付同県庁ヘ達ヲ請フ件」[16]
    • 1881年(明治14年)6月「長崎県下佐古墓地中ニ於テ祭典執行ノ件」[17]
    • 1881年(明治14年)6月「長崎県下墳墓合葬費支出科目ノ件」[18]
    • 1881年(明治14年)7月「長崎県下佐古墓地ヘ建設碑文筆者ノ件」[19]
    • 1881年(明治14年)7月「長崎県下佐古墓碑撰文被命ノ件」[20]
    • 1881年(明治14年)9月「長崎県下佐古ニ埋葬ノ軍人軍属遺体合葬費年度更訂ノ件」[21]
    • 1882年(明治15年)「長崎県下梅ケ崎病院敷地内征蕃戦死者遺骨捜索方ノ件」[22]
    • 1882年(明治15年)1月「長崎県下佐古墳墓ヘ参向勅使官名ノ件」[23]
    • 1882年(明治15年)1月「長崎県下合葬墳墓祭典資ノ件・陸軍省連署」[24]
    • 1882年(明治15年)1月「長崎県佐古軍人軍属合葬碑文ノ件」[25]
    • 1882年(明治15年)4月「長崎県下佐古合葬墳墓碑文修正ノ件」[26]
    • 1882年(明治15年)10月「梅ケ崎病院敷地内残骨処分ノ件・陸軍省連署長崎県申請書合綴」[27]
    • 1882年(明治15年)11月「長崎県下墳墓合葬費年度更訂ノ件」[28]
    • 1883年(明治16年)「侍従北条氏恭長崎県下佐古ヘ改葬ノ軍人軍属遺骨合葬ニ付勅使ノ件」[29]
    • 1883年(明治16年)5月「長崎県下佐古軍人軍属合葬墳墓祭典祭主ノ件・陸軍卿連署」[30]
    • 1883年(明治16年)5月「長崎県下梅ケ崎病院敷地内堀発ノ件」[31]
    • 1883年(明治16年)8月「中将谷干城長崎県下佐古ヘ軍人属遺骸改葬勅祭ニ付祭主トシテ出発ノ件共二」[32]
    • 1883年(明治16年)9月「長崎県下墳墓合葬費年度更訂ノ件」[33]
    • 1883年(明治16年)10月「佐古墳墓勅祭々主旅費ノ件」[34]
    • 1883年(明治16年)12月「長崎県下軍人軍属合葬墳墓石摺及写真進達ノ件」[35]
    • 1884年(明治17年)1月「長崎外三県経費本年度予算中招魂社費増減ノ件」[36]:長崎県、佐賀県、宮崎県、鹿児島県
    • 1884年(明治17年)3月「長崎県下墳墓合葬費増額ノ件・陸軍卿連署」[37]
    • 1884年(明治17年)5月「海軍中佐田中綱常外三名長崎県下佐古ヘ遺骸改葬ニ付慰労金下賜ノ件・海軍卿連署」[38]
  • 『公文附属の図』
    • 1883年(明治16年)12月「二三九号・長崎県下佐古墳墓写真・合葬墓之図」[39]
    • 1883年(明治16年)12月「二三九号・長崎県下佐古墳墓写真・合葬墓全景之図」[40]
    • 1883年(明治16年)12月「二三九号・長崎県下佐古墳墓写真・合葬墓遠景之図」[41]
    • 1883年(明治16年)12月「二四〇号・石摺(長崎県下佐古墳墓)」[42]
  • 『公文類聚』
    • 1882年(明治15年)1月16日「長崎佐古軍人軍属合葬碑文」[43]
    • 1882年(明治15年)1月24日「長崎県下佐古墳墓祭典ノ際参向勅使官姓名ヲ陸軍省ヘ通知ス」[44]
    • 1882年(明治15年)3月22日「陸海軍両省長崎県下合葬墳墓臨時祭典費交付」[45]
    • 1882年(明治15年)5月9日「長崎佐古軍人軍属合葬碑文修正」[46]
    • 1882年(明治15年)10月11日「長崎梅ケ崎病院敷地内遺骨ヲ再ヒ捜索セシム」[47]
    • 1882年(明治15年)11月13日「海軍省十四年度長崎県下墳墓合葬費ヲ十五年度ニ更訂」[48]
    • 1882年(明治15年)11月22日「長崎梅ケ崎病院敷地内遺骨捜索ノ為メ建造物ヲ取毀ツヘキ場合ニ至ル時ハ其旨趣ヲ更ニ具申セシム」[49]
    • 1883年(明治16年)4月11日「長崎県下佐古官軍戦死者埋葬地ヘ番人家屋建設」[50]
    • 1883年(明治16年)8月1日「陸海軍両省長崎梅ケ崎病院敷地発掘ノ際遺骨夥多露出」[51]
    • 1883年(明治16年)8月14日「長崎県下佐古ヘ改葬ノ軍人軍属ノ遺骸ヲ合葬シ勅祭執行ニ付陸軍中将谷干城ヲ以テ祭主ト為ス・二条」[52]
    • 1883年(明治16年)9月1日「陸海軍両省長崎梅ケ崎病院取毀敷地発掘ヲ了シ軍人軍属ノ遺骨ヲ合葬ス」[53]
    • 1883年(明治16年)9月29日「海軍省長崎県下墳墓合葬費十五年度超過金額ヲ更ニ十六年度ニ更訂下付ス」[54]
    • 1883年(明治16年)10月2日「陸海軍両省長崎梅ケ崎病院取毀敷地発掘ヲ了シ軍人軍属ノ遺骨ヲ合葬スニ付祭典ヲ修スルヲ以テ勅使ノ西下ヲ許ス」[55]
    • 1883年(明治16年)10月27日「在長崎佐古合葬軍人墳墓勅祭ニ付祭主陸軍中将谷干城ノ往復旅費別途下付」[56]
    • 1884年(明治17年)1月23日「長崎外三県経費本年度予算中招魂社費増減」[57]:長崎県、佐賀県、宮崎県、鹿児島県
  • 『記録材料』
    • 1881年(明治14年)5月「軍事部・長崎県下招魂社ヲ墓碑ニ改正ノ件」[58]
    • 1881年(明治14年)6月「大蔵省ノ部・長崎県下墳墓合葬ニ係ル費用支出方及大科目設置ノ件」[59]
    • 1881年(明治14年)6月「大蔵省ノ部・長崎県下墳墓合葬ニ係ル費用支出方及ヒ大科目設置ノ件」[60]
    • 1882年(明治15年)3月「海軍省之部・海陸両省連署上請長崎県下合葬墳墓祭典費御下付ノ件」
    • 1882年(明治15年)7月「海軍省・長崎県下梅ケ崎病院敷地残骨発掘方ノ儀」
    • 1882年(明治15年)7月「府県・長崎梅ケ崎病院敷地内遺骨捜索ノ儀」
    • 1882年(明治15年)11月「海軍省之部・長崎県下墳墓合葬費年度更訂ノ件」[61]
    • 1883年(明治16年)「府県・梅ケ崎病院取毀敷地発掘該院再築入費請求ノ義・長崎県」[62]
    • 1883年(明治16年)1月「陸軍省伺届議案・佐古墳墓勅祭々主旅費下付ノ件」[63]
    • 1883年(明治16年)1月「海軍省・長崎県下墳墓合葬費年度更訂ノ件」[64]
    • 1884年(明治17年)1月「長崎外三県経費本年度予算中招魂社費増減ノ件」[65]:長崎県、佐賀県、宮崎県、鹿児島県
    • 1884年(明治17年)3月「長崎県下墳墓合葬費増額ノ件」[66]
  • 『処蕃書類追録』
    • 1875年(明治8年)6月7日「内務省ヘ処蕃事件ニ付梅ケ崎埋葬地長崎県引渡云々往復」[67]
    • 1875年(明治8年)7月24日「長崎県梅ケ崎埋葬地引渡ノ儀ニ付達」[68]
    • 1875年(明治8年)7月31日「今村大主記外三名ヨリ長崎梅ケ崎墓碑改鐫云々報告書」[69]
    • 1875年(明治8年)8月15日「史官大主記今村昇外一名梅ケ崎埋葬墓碑改鐫之儀往柬」[70]
  • 『処蕃始末』
    • 1875年(明治8年)2月27日「三月二十二日長崎梅ケ崎祭典ノ儀布告・二十七日」[71]
    • 1875年(明治8年)2月28日「長崎梅ケ崎祭典執行ノ儀・二十八日」[72]
    • 1875年(明治8年)3月5日「長崎梅ケ崎祭典ニ付五辻式部助勅使奉命ノ儀・五日」[73]
    • 1875年(明治8年)3月「長崎梅ケ崎祭典ニ付西郷中将祭主奉命ノ儀伺」[74]
    • 1875年(明治8年)3月「陸海軍省ヘ長崎梅ケ崎祭典歩兵出張軍艦士官拝礼云々達并長崎県ヘ勅使参向ノ儀達」[75]
    • 1875年(明治8年)3月10日「旧都督府ヘ梅ケ崎祭典ニ付大倉喜八郎代理人差出云々通知ノ儀・十日」[76]
    • 1875年(明治8年)3月「三菱会社ヘ長崎梅ケ崎祭典ニ付西郷中将并随行ノ者金川丸ヘ乗組云々達」[77]
    • 1875年(明治8年)4月2日「在崎西郷中将ヨリ梅ケ崎祭典景況報告・二日」[78]
    • 1875年(明治8年)4月4日「長崎県ヨリ梅ケ崎祭典執行届・四日」[79]
    • 1875年(明治8年)5月「神官小西成則外一名ヨリ梅ケ崎祭典執行届」[80]
    • 1875年(明治8年)5月18日「西郷中将並長崎県ヘ梅ケ崎墓碑改鐫ニ付今村大主記外三名出張ノ儀往復・十八日」[81]
  • 『決裁録』
    • 1881年(明治14年)1月「長崎県下梅ケ崎埋葬地不始末」
    • 1881年(明治14年)1月「長崎県下佐古招魂社ヲ墓碑ニ改正」
    • 1881年(明治14年)1月「長崎県下佐古墓地祭典執行」
    • 1881年(明治14年)1月「長崎県下佐古墓地ヘ墳墓合葬ニ付同県庁ヘ達」
    • 1881年(明治14年)5月「大・長崎県下墳墓合葬ニ係ル費用支出方」
    • 1881年(明治14年)6月「佐古碑作文別人ニ被仰付度」
  • 『考按簿』
    • 1881年(明治14年)「海・佐古墳墓地ヘ建設ノ墓碑撰文」
    • 1881年(明治14年)「陸海・佐古ニ建設ノ碑文筆者」
    • 1881年(明治14年)「陸・長崎県下招魂社ヲ墓碑ニ改正」
  • 『往復簿』
    • 1881年(明治14年)1月「内・長崎梅ケ崎転葬ノ義ニ付伺指令書類送付ノ件」
  • 『公文別録』
    • 1878年(明治11年)「陸軍中将谷干城建白長崎梅ケ崎軍人軍属改葬事件法官ニ付シテ審糾ヲ乞フノ議」[82]
  • 1919『現行長崎県令規全集』「招魂社・墳墓」[83]
  • 『法規分類大全』「長崎県下梅ケ崎征台軍人墳墓ニ碑ヲ賜フ」[84]
  • 1940『海軍制度沿革7』「長崎軍人墓地」[85]

文献

  • 1892『長崎軍歌』「佐古招魂場歌」[86]
  • 1929『長崎市史・地誌編神社教会部上』「神社表」[87]
  • 1929『長崎市史・地誌編神社教会部下』「梅香崎招魂社」[88]
  • 佐世保海軍工廠1936『佐世保鎮守府埋葬地忠魂録』「佐古招魂社」[89]
  • 長崎県神職会長崎支会1936『長崎神社巡り』「官祭佐古招魂社」[90]
  • 長崎県在郷軍人会1939『佐古梅ケ崎招魂社・佐古梅ケ崎墳墓沿革概要』:1960年、1968年、1996年に復刊。
  • 高橋文雄1966『内海忠勝』「梅香崎軍人遺骨処分事件」[91]
  • 1968「祭祀者名簿」:日本郷友連盟長崎県郷友会1968『佐古梅ケ崎招魂社・佐古梅ケ崎墳墓沿革概要』に収録。
  • 長崎市小学校職員会1973『明治維新以後の長崎』「佐古招魂社」[92]
  • 長崎県警察史編集委員会1976『長崎県警察史』「戦傷病死した警視局警察官」[93]
  • 1979「巡査どんの墓を巡りて」『自警』[94]:警視隊の墓碑
  • 青木義勇1983「明治初期の長崎医学校・病院概述、特に建造物の興廃と戦時仮病院指定二回の経験」『長崎談叢』[95]
  • 雪下紀八郎1997『埋葬者名簿』:所蔵不詳
  • 荒濱茂2007「史談往来・北から南から英霊の慟哭を秘めた「佐古招魂社」」『歴史研究』553
  • 檜山幸夫2012「帝国日本の戦歿者慰霊と靖国神社(中の甲) 日本統治下台湾における台湾人の靖国合祀を事例として」[96]:石造物に詳しい
  • 2014『新長崎市史・第3巻近代編』「梅香崎招魂社、佐古招魂社」
  • 藤本健太郎2018「西南戦争下における長崎県非常事務係の役割」[97]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BD%90%E5%8F%A4%E6%8B%9B%E9%AD%82%E7%A4%BE」より作成

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