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元明天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年4月27日 (火)
奈良県奈良市にある元明天皇の陵墓。元正天皇陵や基王墓が近くにある。奈保山東陵。
歴史
元明天皇は、古墳を否定し山丘をもって陵墓となすように命じた。大化の改新以来の薄葬思想がさらに進んだことを示し、「古墳型陵墓」から「山丘型陵墓」への転換期を示す陵墓であるとされる。 721年(養老5年)12月7日に崩御したが、遺詔として、華美な葬儀を戒め、「雍良峯」で火葬し、古墳を築かず、火葬所を山陵とし、碑を建てることを命じている(『続日本紀』)。火葬については既に持統天皇や文武天皇の例があり、元明天皇で三番目になる。しかし、古墳を築かないことは、元明天皇に始まるのであった。また天皇陵に限らず、墓碑の類が製作されることは、日本古代の墳墓としては極めて異例である。これらのことは、唐の皇帝陵の影響があったと考えられている。陵碑に関しては鎌倉時代の『東大寺要録』に図示されているが、次第に元明天皇陵の存在は忘れられ、所在地は不明となった。 江戸時代に天皇陵の考証が始まると、当初は「ウワナベ古墳」(中期・5世紀中葉・前方後円墳)が有力視された。しかし、「養老ケ峰」という山で崩落があり、そこから「函石」が出土した。1769年(明和6年)、藤貞幹がこの石こそ『東大寺要録』に記載のある元明天皇陵碑であると考証した(『奈保山御陵碑考証』)。これを受けて文久の修陵の際には、従来の「ウワナベ古墳」ではなく、「養老ケ峰」が元明天皇陵として修復された。このとき、「函石」は山陵頂上部の新造された覆屋に保管されるとともに、1870年(明治3年)には模刻の石碑が製作され、隣接して設置された(非公開)。『文久山陵図』の成功図にも陵頂に小屋が確認できる。一方、ウワナベ古墳はのちに「宇和奈辺陵墓参考地」となった(『文久山陵図』207・山田邦和「元明天皇陵」『歴史検証天皇陵』)。