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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

六条御堂

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年2月17日 (日)

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六条御堂(ろくじょう・みどう)は京都・六条内裏にあった仏堂。本尊は阿弥陀如来と思われる。臨済宗万寿寺の前身。跡地は現在の京都府京都市下京区塗師屋町周辺で、「下万寿寺町」の地名も残る。

歴史

六条内裏は白河天皇(1053-1129)の里内裏の一つ。白河天皇は1076年(承保3年)12月21日に六条内裏に入り、翌年10月に高陽院に移るまで御所とした(百錬抄)。譲位後、1087年(寛治1年)には六条内裏を仙洞御所として使ったが、同年から大規模な整備を行い、1091年(寛治5年)に完成。工事中は大炊殿にいた白河上皇は8月にほとんど新造のように造営された六条内裏に入った。以後、白河殿と共に白河上皇の主要な御所となった。

1096年(永長1年)に皇女の郁芳門院テイ子内親王が没するとその供養のため御堂建立を発願。翌年、10月14日に落慶法要を行った。平正盛が伊賀国の所領20町を六条御堂に寄進し、これが平氏栄達のきっかけとなったとされる。1123年(保安4年)11月、焼失。のち再建。

正嘉年間(1257-1259)、覚空と湛照がこの御堂にいたが、円爾弁円に帰依して、禅宗寺院とした。これが京都五山の万寿寺である。天正年間に東福寺境内に移るまではこの地にあったらしい。東福寺光明宝殿にある旧万寿寺の阿弥陀如来像が六条御堂の旧仏という説もある。(日本歴史地名大系ほか)

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