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天童護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年8月6日 (火)
(天童招魂社から転送)
天童護国神社は山形県天童市天童の舞鶴山の麓にある招魂社。官祭招魂社。指定外護国神社。天童・建勲神社に隣接。自刃した吉田大八の像を祀る祠堂に由来するのが特徴で、本殿が土蔵形式なのもそのためと考えられる。素道軒祠、素道軒守隆祠、天童招魂社、舞鶴宮とも。
目次 |
祭神
官祭祭神
- 官祭天童招魂社時代の官祭祭神。『山形県神社要覧』[1]の1932年(昭和7年)末時点で官祭祭神は14柱とある。
- 典拠は『天童市史・下巻』「天童護国神社の建立」[2]。
- 靖国神社合祀は靖国神社忠魂史[3][4]で確認した。
- 靖国神社祭神であるが作次郎、松本曻蔵の2柱は天童招魂社官祭祭神には含まれていないようだ。
順 | 名前 | 生没年 | 所属 | 死去 | 死因 | 靖国 | 招魂社 | 官修墳墓 | 贈位 | 略歴 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 吉田大八 | 1832-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)8月18日 | 自刃 | 合祀 | 天童仏向寺官修墳墓 | 正五位 | ||
2 | 緒形直人 | 1838-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童善行寺官修墳墓 | |||
3 | 野村半左衛門 | 1822-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童善行寺官修墳墓 | |||
4 | 山本外也 | 1842-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)8月5日 | 戦死 | 合祀 | 天童三宝寺官修墳墓 | 戦況を伝えるため上京して帰郷途中に庭坂宿で敵軍に守兵に捕縛され殺害された。 | ||
5 | 小林三平 | 1817-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)8月5日 | 戦死 | 合祀 | 天童善行寺官修墳墓 | 山本外也の従者。共に殺害された。 | ||
6 | 五百沢安兵衛 | ?-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童善行寺官修墳墓 | |||
7 | 井上文蔵 | 1840-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童城廻官修墳墓 | |||
8 | 佐藤瓶右衛門 | 1792-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童三宝寺官修墳墓 | |||
9 | 北村金太夫 | 1823-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童三宝寺官修墳墓 | |||
10 | 喜多村源吾 | 1830-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童三宝寺官修墳墓 | |||
11 | 喜多村小次郎 | 1851-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童三宝寺官修墳墓 | |||
12 | 海野彦吉 | 1840-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童仏向寺官修墳墓 | |||
13 | 結城民次郎 | 1843-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童仏向寺官修墳墓 | |||
14 | 加藤仙太郎 | 1846-1868 | 天童藩 | 1868年(明治1年)閏4月4日 | 戦死 | 合祀 | 天童仏向寺官修墳墓 |
歴史
- 1868年(明治1年)閏4月:天童藩は官軍の奥羽鎮撫使先導を命じられ、吉田守隆は藩主代理として軍を率いるが、天童の戦いで敗退。
- 1868年(明治1年)6月18日:追い込まれた天童藩は佐幕派に転じ、この日吉田守隆は自刃した。
- 1868年(明治1年)10月:奥羽鎮撫総督、祭祀料100両を贈る(『明治天皇紀』)。
- 1869年(明治2年)12月13日:明治天皇、祭資金200両を天童藩主織田信敏に下賜(『明治天皇紀』)。
- 1871年(明治4年)3月:高橋伝兵衛、武田留兵衛ら有志が、戊辰戦争で自刃した天童藩家老の吉田守隆(吉田大八、素道軒、1832-1868)の像[5]を祭り、素道軒祠と称す。毎年4月・8月の18日を例祭日とする。(『山形県通覧』[6]、『靖国神社誌』、境内由緒書、『明治七年山形県史』[7])(4月17日に像が奉安され、18日に祭典が行われたとも(『天童市史下巻』))
- 1875年(明治8年):官祭となり、4月18日が例祭となる(山形県通覧)。1916『山形県案内』には「明治九年以来官祭」とされる。
- 1875年(明治8年)12月:掃除料として月12銭5厘下付(『天童市史下巻』)。
- 1876年(明治9年)4月18日:祭典料年金10両(『天童市史下巻』)。
- 1876年(明治9年)8月:明治天皇、祭祀料15円を下賜(『天童市史下巻』)。
- 1876年(明治9年)10月:13人を合祀。(山形県通覧。『日本歴史地名大系』では1877年(明治10年)。1878年(明治11年)とも)
- 1878年(明治11年)11月:毎月25銭下付(『天童市史下巻』)
- 1882年(明治15年)3月:山形招魂社・天童招魂社・新荘招魂社の3社の例祭日を5月6日に改定統一する(山形県布達乙第36号[8])。1879年(明治12年)9月に1880年(明治13年)以降11月6日に改定統一する(山形県布達乙163号)が変更になる。
- 1887年(明治20年)10月:山形県、「招魂社并官軍墳墓修繕費及監査の件」(達庶第241号)を達す。
- 1890年(明治23年)4月:山形県、招魂社費と招魂社営繕費の取扱順序を制定(達一庶125号[9])。招魂社費は山形招魂社が金16円50銭、天童招魂社13円50銭、新荘招魂社は24円。招魂社営繕費は山形招魂社が25円ずつとし、そのうち5円を受持神官の年給とする。
- 1918年(大正7年)4月:日清戦争・日露戦争の戦死者を合祀(『天童市史下巻』)。
- 1932年(昭和7年)4月:満洲事変戦死者を合祀(『天童市史下巻』)。
- 1939年(昭和14年)4月1日:護国神社制度制定により天童護国神社と改称。
画像
資料
- 1874『明治七年山形県史』[10]
- 1894『山形県社寺令規』「招魂社・官軍墳墓」[11]
- 1916『山形県行幸記』「戊辰戦死者」[12]:山形藩、上山藩、天童藩、仙台藩、新庄藩、米沢藩。
- 1984『天童市史・別巻』「天童護国神社」[13]
- 1992『天童市史・下巻』「天童護国神社の建立」[14]
古写真[15]