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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

後七日御修法関連旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年1月23日 (水)

後七日御修法から転送)
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宮中真言院。年中行事絵巻写本に描く後七日御修法(部分)

後七日御修法(ごしちにちみしほ)。勅会真言宗の四つの宮中法会(後七日御修法、大元帥御修法、仁寿殿観音供、晦日御念誦)の一つ。

目次

歴史

空海は御修法を行う上奏文を提出し、834年(承和1年)12月、勅許を得る。835年(承和2年)1月8日に初めて行った。1月8日から1月14日の期間は大極殿での御斎会が恒例となっていたが、空海は密教修法の意義を説いて認められた。空海は同年死去。顕教の御斎会、密教の後七日御修法が相補うような関係となり、10世紀には両者の結合として内論義の儀式も成立した。

会場は勘解由使庁を改造して真言院とした。 真言院の成立は禁中年中行事、公事根源、本朝通鑑に829年説があるが帝王編年記、本朝僧伝、水鏡、東寺王代記などは834年説を載せる。 834年の臨時の御修法では中務省を道場としているので、御修法を行なった後に設置されたものとみられる。 勘解由使庁を撤去して新たに建てたとも、改造したともいうが分からない。

1353年(正平8年/文和2年)の真言院廃滅の後は、明治初年まで紫宸殿が道場となった。1460年(寛正1年)を最後に百数十年中断。近世、醍醐寺義演の働き掛けで1623年(元和9年)復興。1871年(明治4年)廃絶するが、1883年(明治16年)1月8日、東寺灌頂院を道場として復興した。

「玉体安康」が目的に加わるのは11世紀ごろからという。

本尊

後七日御修法の本尊は曼荼羅(金剛界・胎蔵界を一年交代)と考えるのが基本だが、観賢(853-925)の時代には仏舎利を本尊とする説もあった。仏舎利を納めた宝塔がその年の曼荼羅前の大壇の上に据えられた。内藤栄によれば、奈良時代には仏舎利そのものを法要の場に祀ることはなかった。それを修法の中心に据えたことは大きな変化で画期的だという。空海は仏舎利80粒を唐から請来した。胎蔵界系の『蘇悉地羯羅経』によれば、修法の大壇を築くふさわしい場所について説いており、舎利の安置されている塔の中で行えばことごとく成就し、特に八大塔では最上の成就を得ることができるとする。道場には一切の難がなく、魔王や諸悪の妨害を守護すると説く。仏舎利は修法壇を守護する存在として描かれている。金剛界系の『金剛頂瑜伽略出念誦経』も『蘇悉地羯羅経』に同様とする。

覚禅抄の説では、御修法も御斎会と同様に最勝王経の深秘を修するものであるから最勝王経の本尊である宝生尊を本尊とするという。

次第

毎年1月8日から14日まで真言院で実施。同期間には大極殿での御斎会治部省での大元法も行われていた。 ただし時には時期をずらして実施した年や中止の年もあった。また紫宸殿を道場としていた江戸時代には即位の年のみ2月または3月に行った。例年は醍醐寺理性院を道場とする大元法を即位の年のみ紫宸殿で行ったためだった。

金剛界立と胎蔵界立を交互に行う。 835年(承和2年)の初回の御修法では胎蔵界立で行われたと推測されている。それは前年に臨時で行った御修法で金剛界立を行った記述が『禁中年中行事』などにあるからだという。 東密には数十の流派があるが後七日御修法を修した12流派を根本十二流という。 明治中興以降は勧修寺流金剛界立と西院流胎蔵界立を交互に行う。

前年12月の中旬か下旬に大阿闍梨が決まり任命される。しかし人選が難航して承治2年には正月6日に任命が遅れたことも。当日早朝まで民部卿亭、あるいは近衛邸に入る。東寺長者は真言宗の有力寺院の住職が兼務することが多いので東寺にいるとは限らない。民部卿亭を未刻(午後2時)に出発して真言院に入る。

大阿闍梨1人と供僧14人の計15人が出仕した。 大阿闍梨は東寺長者が務めた。東寺長者は中世には最大で一長者から四長者までいた。 現在も大阿闍梨は東寺長者の代理の立場で務める。 一度だけ東寺長者以外のものが大阿闍梨を務めたことがある。 供僧14人は東寺定額僧24人の中から選び、天皇の裁可を必要とした。 大阿闍梨の他、息災、増益、五大尊、聖天、十二天、舎利守、神供、呪頭などの配役があり、江戸時代の復興からは御手替も加わった。

大正時代には供僧14人のうち、9人は管長が務めた。残り5人は智山派1人、豊山派1人、古義3人が出仕した。

運営の実務を担う役職として古くは朝廷が官人を御修法修行に任じたが、中世からは一括して費用を大阿闍梨に交付して、実務に当たる別当が差配するようになった。別当の他、大行事、小行事、承仕という役職もある。維新までは御修法の費用として300石が当てられていたが、近代は復興した明治16年に100円が下賜された他、少なくとも大正までは下賜金はない。

1月8日の明け方から始まった。


結願の日、修法が終わった後、大阿闍梨が天皇の下に趣き、玉体加持が行われた。その場所は様々だった。天皇の出御がない時は御衣加持のみとしたとも。明治以降は御衣加持を行っている。

また結願の日には仏舎利の数を数える儀式が行われた?。功徳に応じて仏舎利の数が増減すると信仰されている。

この他、現在清涼殿二間観音の祭祀が継承され、1月12日に観音供が行われる。

香水は神泉苑の水から組まれた水が使われたという。 室生寺の龍穴を観想する行があるという。


加持には玉体加持、香水加持、御衣加持の三種があるが玉体加持が中心。香水加持は玉体加持を行うための準備作法、御衣加持は玉体加持の変形と言える。

玉体加持は14日の結願の後に天皇に直接加持する。空海が行なった初回の御修法の時、結願後に清涼殿に参内し、秘法を持って香水で行ったことに因むという。 香水加持は玉体加持の香水を準備する作法と思われる。12日の暁に神泉苑で霊水を組み、名香を入れて13日暁から3日間加持する。「三日九時の加持」と呼ぶ。 この香水は玉体加持に使われたが、他の説として、香水を注いだ湯に天皇が浴したという伝もある。

御衣加持は12日、13日、14日の後夜法要・初夜法要に計9回行われた。日中法要では行わなかった。御衣加持は天皇の衣服を壇上に安置してそれを天皇の身体と観念して祈念する。天皇はその加持した衣服を着用することとで災害を払い、威福を増加させるという。皇后、皇太子ら皇族の御衣を加持することもあった。天皇が着た御衣や御櫛、御冠などを包んで本尊の前に置き、それを御撫物(ぎょぶもつ)を称して修法したこともある。

明治再興の際、玉体加持は認められなかった。ところが1883年(明治16年)の結願の後、別所栄厳が1月20日、宮中参内し拝謁。 別所栄厳は袖の中で密かに玉体加持の作法を行ったという。 しかしそれ以来は行われていないという。

奏状「宮中真言院正月御修法」 御遺告「宮中正月後七日御願修法」


同期間、後七日御修法の他、大極殿で御斎会、治部省で大元帥法が行われていたが、 後七日御修法と大元帥法は御斎会より終了時間が少し早く、両法会を終えた僧侶が御斎会の最後に行われる内論義に合流して出仕することもあった。

道場

後七日御修法・真言院平面図(行事秘抄)
後七日御修法・真言院平面図(覚禅抄)

大内裏(平安宮)内の真言院で行われた。真言院に支障があった時は、紫宸殿や豊楽院、あるいは東寺灌頂院で行うこともあった。江戸時代の復興から明治4年までは京都御所紫宸殿で行われた。明治16年の復興以後は現在まで東寺灌頂院で行われている。

真言院には本堂の他、護摩堂、阿闍梨房、僧房、雑舎があった。全て檜皮葺だった。 本堂内の配置は時代によって変遷があるが概ね次の通り。身舎東壁に西向きに胎蔵界曼荼羅、西壁に東向きに金剛界曼荼羅を祀り、それぞれの前に大壇を据える。一年交代で胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅を本尊とするが、その時の大壇の中央に仏舎利を納めた金剛宝塔を据える。北壁に南向きに五大明王画像を祀る。東庇には十二天画像を掛ける。それぞれの画像の前に机を置き供物を並べる。 『覚禅抄』によれば西北隅に増益護摩壇、西庇に息災護摩壇、北庇の東側に聖天壇があった。

  • 金剛界曼荼羅・大壇:身舎の西壁に祀る。
  • 胎蔵界曼荼羅・大壇:身舎の東壁に祀る。
  • 仏舎利塔:その年の本尊となる曼荼羅の前の大壇に奉安される。
  • 五大尊:身舎の北壁に画像を祀る。
  • 十二天:西庇に画像を祀る。
  • 聖天壇:『覚禅抄』では庇の東北隅に壇を設ける。『行事秘抄』では身舎の南側とする。
  • 息災壇:『覚禅抄』では庇の西北隅に壇を設ける。『行事秘抄』では身舎の中央とする。
  • 増益壇:『覚禅抄』では庇の西北隅に壇を設ける。『行事秘抄』では身舎の北側とする。
  • 二間観音:『行事秘抄』では身舎の北壁の西寄りに祀る。『覚禅抄』ではなし。現在はあり。
  • 孔雀明王:『覚禅抄』には身舎の北壁の東寄りに祀る。『行事秘抄』ではなし。円融天皇御願の木像があったが安元3年の火災で焼失。以後、孔雀明王供は廃絶か。
  • 神供所:

玉体加持の場は一定せず紫宸殿、清涼殿、真言院の他、同期間中に行われていた宮中御斎会の場(大極殿か)に参じて行うことも少なくなかった。

関連旧跡

真言院の位置(皇城大内裏地図・部分・加工)

年表

年中行事絵巻写本に描く後七日御修法
  • 嵯峨天皇代:空海が唐より請来した観音像を仁寿殿に祀った。仁寿殿観音供(後の二間観音)の起源という。仁寿殿に祀ったのは962年(応和2年)のことともいう(年中行事秘抄、公事根源)。
  • 829年(天長6年):空海、内道場設置を上奏するが受け入れられず。
  • 834年(承和1年):空海、宮中中務省で臨時の御修法を行う。(『起源及沿革』)
  • 834年(承和1年)頃:空海が後七日御修法実施の上奏文(「宮中真言院正月御修法奏状」)を提出。
  • 同年:真言院成立。(『起源及沿革』)
  • 834年(承和1年)12月29日:勅許。(『起源及沿革』)
  • 835年(承和2年)1月8日:初めての後七日御修法。空海が大阿闍梨を務め、僧14人、沙弥14人が出仕した。
  • 835年(承和2年)3月21日:空海死去。
  • 927年(延長5年):『延喜式』に毎年正月8日から14日まで7日間、真言院で修すると規定される。
  • 962年(応和2年):一説に仁寿殿観音供始まる。寛空が開眼したという。(年中行事秘抄、公事根源)
  • 989年(永祚1年):真言院焼失?
  • 1044年:仁海のとき、膝が悪いため、玉体加持は代理の覚深がおこなった。(『起源及沿革』)
  • 1084年:暴風で真言院大破。以後、2-3年、大膳職で実施。(覚禅抄)(『起源及沿革』)
  • 1127年(大治2年):東寺宝蔵の火災で五大明王像・十二天像が焼失。その後新調される。
  • 1129年(大治4年):仁寿殿観音焼失。観音像を再造。(年中行事秘抄)
  • 1153年:大阿闍梨となった覚遍のおばがなくなった時、服喪が問題になった。天皇は問題なしと勅を出したが、反対の声が止まず結局辞退した。(『起源及沿革』)
  • 1177年(治承1年)4月28日:真言院焼失。円融天皇御願の孔雀明王像も焼失(以降、孔雀明王供は廃絶か)。大極殿、応天門なども。まもなく再建され、翌年の御修法は新築のもので行う。(『起源及沿革』)
  • 1185年8月:地震で真言院損傷。(『起源及沿革』)
  • 1186年:中止。(『起源及沿革』)
  • 1187年:紫宸殿で実施。(『起源及沿革』)
  • 1353年(正平8年/文和2年)4月5日:真言院暴風で大破。10月から再建し始めるが、進まず。5〜6年は実施されなかった。(『起源及沿革』)
  • 1359年:真言院再建され実施。8月8日からとずれ込む。しかしまもなく紫宸殿で行うようになる。その理由ははっきりしないという。(『起源及沿革』)
  • 1392年:足利義満、後小松天皇の勅を受け、二間観音を東寺に預ける。以来、御修法の時のみ宮中に移したか。(『東寺沿革略史』)
  • 1432年(永享4年):足利義教が真言院復興?
  • 1454年:この頃から衰微が著しくなる。東寺長者が直前に病気のため大阿闍梨を辞退。二の長者を新たに選んで行うことになり1/30から2/6まで行った。(『起源及沿革』)
  • 1455年:天皇崩御のため中止。(『起源及沿革』)
  • 1456年:12月27日から30日まで。2年度分をまとめて行ったという。(『起源及沿革』)
  • 1457年:実施せず。(『起源及沿革』)
  • 1460年(寛正1年):この年を最後に百数十年中断。2/8-2/14紫宸殿で行なった。しかし東寺長者以外のものが大阿闍梨を務めた。(『起源及沿革』)
  • 1623年(元和9年):醍醐寺義演の働き掛けで復興。この時、新たに「御手替」の役職を定めた。(『起源及沿革』)
  • 1693年(元禄6年):現在の両界曼荼羅を制作。
  • 光格天皇代:二間観音供を後七日御修法の12日に行うようになり以後恒例。(『東寺沿革略史』)
  • 1871年(明治4年)9月2日:明治政府、後七日御修法の廃止を達す。「明治以降野峯高僧伝」、『起源及沿革』)
  • 明治12年、大成会議。再興の議論。(『起源及沿革』)
  • 明治15年3月、三条西乗禅は再興願を提出。三条西、釈雲照、大崎行智、土宜法龍が東上して働き掛けた。大原演護も岩倉具視の縁者であることを生かして働き掛けた。山階宮、小松宮、閑院宮の援助を得て、政府内では宮内省の山岡鉄舟、太政官の青木貞三の応援を得た。(『起源及沿革』)
  • 1882年(明治15年)8月4日:御修法再興の許可(「宮中後七日御修法勤修の旨趣及由来」)。ただし「寺門にて執行」とされた。「地方長官の隣監のこと」とされた。(『起源及沿革』)
  • 1882年8月28日:三条西は玉体加持と御衣加持の復興を願い出る。(『起源及沿革』)
  • 1882年9月16日:御衣の下付のみ許可。玉体加持は許可されなかった。(『起源及沿革』)
  • 1883年(明治16年)1月8日:再興。東寺灌頂院が道場となる。初回は別所、三条西、佐伯、松平、上田、雲照、和田、大崎、原心猛など。中日、結願に勅使参拝。警官が警備した。(『起源及沿革』)
  • 1/14:結願。初回は大阿闍梨が宮中に直接御衣を奉還。この時、大阿闍梨は密かに袖の中で、玉体加持を行なった。次年以後は別当が京都主殿寮出張所に持参。(『起源及沿革』)
  • 明治29年:宗派分裂のため、智山派豊山派は御修法実施から外れる。(『起源及沿革』)
  • 1912年(大正1年)1月15日:真言宗各宗派連合、「宮中後七日御修法勤修の旨趣及由来」を提出。
  • 同日?:大阿闍梨の直接の御衣奉還を復興。(『起源及沿革』)
  • 1916年:以後、真言宗連合の長者が大阿闍梨となる。(『起源及沿革』)
  • 1921年:宗派独立のため一時離れた智山派豊山派も御修法実施に復帰。管長は大阿闍梨の候補となる。(『起源及沿革』)

法具

  • 両界曼荼羅図
    • 伝真言院曼荼羅:国宝。東寺蔵。絹本著色。日本で現存最古の彩色曼荼羅。平安時代初期の作。真言院に掲げられ、後七日御修法に使われていたというが確証はない。一時期、東寺西院で使われていたことから西院本曼荼羅とも呼ばれる。
    • 元禄本:現在も使用。重要文化財。東寺蔵。宗覚筆。副本と思われるものが久修園院に伝わる。
  • 金銅五鈷杵:現在も使用。国宝「金銅密教法具」の一部。東寺蔵。唐代の作。空海の時代から使われ続けているとされる。
  • 金銅五鈷鈴:現在も使用。国宝「金銅密教法具」の一部。東寺蔵。唐代の作。空海の時代から使われ続けているとされる。
  • 金銅五鈷盤:現在も使用。国宝「金銅密教法具」の一部。東寺蔵。唐代の作。空海の時代から使われ続けているとされる。
  • 金剛宝塔
  • 五大尊画像:五大明王を描く。
    • 五大尊像:国宝。東寺蔵。絹本著色。平安時代。
  • 十二天画像:十二天を描く。
    • 長久本:1040年(長久1年)作。1127年(大治2年)焼失。
    • 大治本:国宝。京都国立博物館蔵。絹本著色。平安時代。1127年(大治2年)作。仁和寺円堂本を模写したという。画像[1]
  • 孔雀明王画像
  • 金銅羯磨

資料

古典籍

宮中真言院の五大尊。年中行事絵巻写本に描く後七日御修法(部分)
宮中真言院の胎蔵界曼荼羅壇。年中行事絵巻写本に描く後七日御修法(部分)
宮中真言院の付属殿舎。年中行事絵巻写本に描く後七日御修法(部分)
宮中真言院の付属殿舎。年中行事絵巻写本に描く後七日御修法(部分)
  • 「宮中眞言院正月御修法奏状」:空海が朝廷に提出した上奏文。1893性霊集付録[2]
  • 『年中行事絵巻』:平安時代の朝廷の行事を描いた絵巻。1157~1179年ごろの成立と考えられている。原本は現存せず。江戸時代の写本が伝わる。後七日御修法の様子も描く。
  • 『行事秘抄』:
  • 『覚禅抄』:
  • 『御質抄』:後七日御修法の記録。『続群書類従』25下に所収。
  • 『後七日御修法由緒作法』:『続群書類従』25下に所収。
  • 『後七日御修法部類』:『続群書類従』25下に所収。
  • 『永治二年真言院御修法記』:1142年(康治1年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
  • 『養和二年後七日御修法記』:1182年(寿永1年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
  • 『文治五年己酉真言院御修法胎蔵界日記』:1189年(文治5年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
  • 『建保三年乙亥後七日御修法胎蔵界私記』:1215年(建保3年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
  • 『禅信僧正後七日修法記』:1433年(永享5年)の記録か。『続群書類従』25下に所収。
  • 『後七日御修法再興記』:醍醐寺義演による近世の復興の記録。2017『後七日御修法再興記 影印・翻刻・解題』勉誠出版[3]
  • 『義演准后日記』:醍醐寺義演の日記。後七日御修法復興のことも記す。
  • 『真言院御修法』[4]
  • 『年中行事秘抄』:1293年以前成立。[5]
  • 『公事根源新釈』:[6]

文献

  • 小田慈舟1940「高祖大師の鎮護国家思想とその事蹟」[7]
  • 大山公淳1944「護国の仏教」[8]
  • 高見寛恭・村主恵快1975「御修法について」『密教学研究』7
  • 村主恵快1977「後七日御修法の伝承」『密教学』13・14
  • 村主恵快1977「後七日御修法の伝承について」『密教思想』
  • 村主恵快1986「後七日御修法の実録」『東洋文化学科年報』1
  • 村主恵快1988「後七日御修法について(その二)」『密教学』24
  • 石田尚豊1984「弘法大師と後七日御修法」『弘法大師と現代』
  • 山折哲雄1985「後七日御修法と大嘗祭」『国立歴史民俗博物館研究報告』7[9]*武内孝善1986「後七日御修法交名綜覧(一)」『高野山大学論叢』21
  • 武内孝善1987「後七日御修法交名綜覧(二)」『高野山大学論叢』22
  • 武内孝善1988「後七日御修法交名綜覧(三)」『高野山大学論叢』23
  • 武内孝善1988「後七日御修法関係典籍・文書目録(一)」『密教学会報』27
  • 武内孝善1989「後七日御修法関係典籍・文書目録(二)」『密教学会報』28
  • 武内孝善1990「後七日御修法関係典籍・文書目録(三)」『密教学会報』29
  • 武内孝善2006「最晩年の空海」[10]
  • 今井浄円1990「後七日御修法承仕出仕日記一」『龍谷大学仏教学研究室年報』4
  • 今井浄円1992「後七日御修法承仕出仕日記二」『龍谷大学仏教学研究室年報』5
  • 湯浅吉美1995「成田山新勝寺蔵『後七日御修法阿闍梨名帳』について」『成田山仏教研究所紀要』18
  • 登坂高典1996「後七日御修法大阿付承仕荘厳記録」『豊山教学大会紀要』24
  • 田中博美2000「後七日御修法翌年記元和十寛永元改」『醍醐寺文化財研究所研究紀要』18
  • 水野真圓2002「後七日御修法西院聖天供次第について」『真言宗豊山派総合研究院紀要』7
  • 水野真圓2002「(続)後七日御修法西院聖天供次第」『豊山教学大会紀要』30
  • 登坂高典2004「後七日御修法聖天壇荘厳手控え私記西院胎蔵界立」『真言宗豊山派総合研究院紀要』9
  • 内藤栄2005「後七日御修法における舎利の意味について」[11]
  • 内藤栄2017「空海の舎利信仰の源流 後七日御修法とスリランカの仏歯供養」『鹿園雜集 奈良国立博物館研究紀要』[12]
  • 斎木涼子2007「後七日御修法と「玉体安穏」」『南都仏教』90
  • 斎木涼子2009「平安時代の宮中宗教儀礼と天皇像」要旨[13]
  • 戸部憲海2011「後七日御修法について」『真言宗豊山派総合研究院紀要』16


  • 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』1[14]
  • 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』2[15]
  • 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』3[16]
  • 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』4[17]
  • 広安恭寿 1893『宮中後七日御修法沿革記』[18]
  • 祖風宣揚会編1915『皇室と真言宗』[19]
  • 伊藤康安1942「後七日御修法と山門四箇大法」『坐禅十年』[20]
  • 吉田敏雄1902「後七日御修法の再興」『釈雲照』[21]
  • 葦原寂照1901「後七日御修法」『後七日御修法』[22]
  • 山本忍梁1916「宮中後七日御修法」『東寺沿革略誌』[23]
  • 実運「後七日御修法」『秘蔵金宝集上』[24]
  • 伊藤宏見1975「雲照律師の思想と行動」[25]
  • 蓮生観善1920『御修法の起源及沿革』六大新報社[26]


  • 「教王護国寺蔵「伝真言院曼荼羅」の再検討」[27]
  • 渡辺明義「修理報告 絹本著色両界曼荼羅図」[28]
  • 石元泰博著・辻井喬序文・真鍋俊照解説2011『両界曼荼羅 東寺蔵 国宝「伝真言院両界曼荼羅」の世界』平凡社
  • 2014『図録 中世密教と<玉体安穏>の祈り』神奈川県立金沢文庫
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%83%E6%97%A5%E5%BE%A1%E4%BF%AE%E6%B3%95%E9%96%A2%E9%80%A3%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

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