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後白河天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年6月28日 (日)
後白河天皇陵(ごしらかわてんのうりょう)は、京都府京都市東山区にある後白河天皇の陵墓。院御所であった法住寺殿内にあたり、蓮華王院(三十三間堂)や建春門院陵(廃絶)の接して建てられた。現在の陵名は法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)。法住寺法華堂、後白河天皇御影堂ともいう。歴史学的にも埋葬当時の場所と変わらないことが確実視されている天皇陵の一つである。
歴史
天皇は譲位後の1192年(建久3年)3月13日、院御所であった六条西洞院殿(平安京左京六条二坊十三町)で崩御。15日、京外にあったもう一つの院御所法住寺殿に付属する御堂蓮華王院の東側に法華堂が建立され、床下に棺が納められて陵墓とされた。『玉葉』によると、葬儀は待賢門院や建春門院の葬儀に準じて行った。
もともとは蓮華王院の真東に建てられていたと推定される寿陵法華堂に埋葬される計画であったが、1176年(安元2年)7月8日、法皇妃の建春門院が崩御し、彼女の陵墓として急遽転用された。転用には反対もあったが、法皇の強い意志で決定されたとみられている。そのため、建春門院陵の真南に新たな法華堂が新造された。過去には鳥羽天皇皇后美福門院が自らの寿陵として造営していた塔を近衛天皇陵に転用した例があった。1193年(建久4年)3月9日、生前に法皇が発願していた「新御堂」と呼ばれる阿弥陀堂が天皇陵の近辺に建てられた。
中世、朝廷の権威が衰える中で多くの天皇陵が忘れ去られ、衰微したが、後白河天皇陵に限っては存在感を発揮し続けた。1194年(建久5年)、陵墓が鳴動し、朝廷から山陵使が派遣され、天皇霊を慰めた。1195年(建久6年)、上京した源頼朝が参拝している。1322年(元亨2年)には後伏見法皇と花園上皇が参拝。ただしこのとき、並立していたと思われる建春門院陵は既に破損が酷かったと記されており、やがて廃滅に至った。天皇陵には室町時代や戦国時代にも貴族の参拝があった。1249年(建長1年)の蓮華王院の火災で三十三間堂が焼失したのにも関わらず、法華堂は無事で、さらに京都を廃墟と化した応仁の乱でも奇跡的に焼失を免れた。たびたび修復が行われた記録もあり、寛喜年間などに修復された。120回忌に際しては法皇の木像が造立され、奉安された。
近世には元和年間に陵墓を管理するための寺院として法住寺(大興徳院)が創建され、1599年(慶長4年)に修復が行われた。現在の堂宇は江戸時代の1651年(慶安4年)の再建時のものと考えられている。また幕末の文久の修陵では1864年(元治1年)に参道などを整備している。1906年(明治39年)3月23日、従来、法住寺法華堂と称してきたが、法住寺陵と改称した(明治天皇紀)。
伽藍
堂宇は木造本瓦葺の切妻向拝造で、西面する。現在のものは江戸時代の1651年(慶安4年)の再建時のものと考えられている。中には1311年(応長1年)の120回忌に合わせて造立された等身の法皇像が祀られている。像内からは藤原為信筆の絵像と年号入りの願文が発見されている。
当初の姿は明らかでないが、『玉葉』に法皇の葬儀は待賢門院や建春門院の葬儀を模したとあるように、山田邦和は陵墓の構造も待賢門院陵や建春門院陵の法華堂を踏襲したとみている。法華堂との名の通り、当初は普賢菩薩を本尊としていたと考えられ、現在の妙法院本尊像がそれであるとする考察もある(伊東史朗1991)。
蓮華王院三十三間堂の東隣に位置し、現在真北にある養源院の位置には妃である建春門院陵の法華堂があったとみられている。往時には同型同大の2棟の法華堂が並んで三十三間堂と向き合っていたことになる。付属する建物もいくつかあったとみられ、天皇陵の近くに建てられた「新御堂」には丈六の阿弥陀三尊像と丈六の不動尊像が祀られていた。
近隣からは高位の武士の墓が発掘されている。頭痛病平癒の霊験があるという信仰があったという(外池2007 167)。
参考文献
- 『文久山陵図』231頁
- 『明治天皇紀』
- 山田邦和 2006「後白河天皇陵と法住寺殿」『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣