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恭明宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年4月4日 (火)
恭明宮(きょうめいぐう)は、京都府京都市東山区茶屋町にあった光格天皇系の皇室歴代の位牌や念持仏などを奉安する宮内省管轄の霊廟・仏堂。のち泉涌寺に遷座合祀された。
目次 |
奉斎
- 神殿:孝明天皇
- 御霊殿:以下の4種の位牌仏像などが祀られていたという。
歴史
皇室では平安時代中期より、御黒戸と呼ばれる間に、天皇皇族の位牌や念持仏を祀ってきた。しかし、明治維新に伴う皇室祭祀の神式化によって、お黒戸は廃止されることになった。皇室の祖先祭祀は、新たに創建された皇霊殿で行うこととなり、従来の天皇皇族の位牌と念持仏を宮中の外に遷す必要が生じた。そこで、新たに堂宇を建てて遷座奉安することになった。
また明治天皇の東京行幸に伴わなかった女官たちの住居も設置された。
1870年(明治3年)7月ごろには計画されていた。 1871年(明治4年)5月30日、水薬師寺の一室を恭明宮仮殿として遷座した。中御門経之が恭明宮御用掛に任じられた。 ついで、同年11月、方広寺境内(現在の京都国立博物館の地)に恭明宮を造営し、位牌・念持仏を遷座した。11月10日には宮内省の管轄となっている。 建設の際には、方広寺鐘楼(大坂の陣の理由にされた鐘が掛かる)が撤去された。
しかし、恭明宮は廃止の方針となり、1873年(明治6年)3月14日(あるいは17日)、位牌・念持仏は泉涌寺に遷座した。3月3日付の岩倉具視による廃止の上申書が残されている。 当初は舎利殿に奉安されたが、のち位牌などは霊明殿へ、念持仏などは海会堂に奉安された。 水薬師寺に返還されたものもある。
社殿
東西の二区画に分かれており、東区画は孝明天皇に仕えた隠居女官の住居、西区画は薙髪した先代天皇女官の住居となっていた。 東区画の最奥には孝明天皇を祀る「神殿」(御社壇)、西区画の最奥には歴代天皇の「御霊殿」(霊牌殿)があった。
泉涌寺海会堂は「御霊殿」を移築したものの可能性があるという。 水薬師寺尼詰所は豊国神社仮社務所となり、現在も社務所書院として当時の位置のまま現存している。 他に付属建物の一部が京都盲唖院に移築された。現在も京都府立盲学校に恭明宮の瓦が残されているという。