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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

恭明宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年1月9日 (水)

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恭明宮(きょうめいぐう)とは、明治初期に創建された、皇室歴代の位牌と念持仏を奉安する宮内省管轄の霊廟・仏堂である。のち泉涌寺に遷座合祀された。

皇室では平安時代中期より、御黒戸と呼ばれる間に、天皇皇族の位牌や念持仏を祀ってきた。しかし、明治維新に伴う皇室祭祀の神式化によって、お黒戸は廃止されることになった。皇室の祖先祭祀は、新たに創建された皇霊殿で行うこととなり、従来の天皇皇族の位牌と念持仏を宮中の外に遷す必要が生じた。そこで、新たに堂宇を建てて遷座奉安することになった。

また明治天皇の東京行幸に伴わなかった女官たちの住居も設置された。

1870年(明治3年)7月ごろには計画されていた。 1871年(明治4年)5月30日、水薬師寺の一室を恭明宮仮殿として遷座した。中御門経之が恭明宮御用掛に任じられた。 ついで、同年11月、方広寺境内(現在の京都国立博物館の地)に恭明宮を造営し、位牌・念持仏を遷座した。11月10日には宮内省の管轄となっている。 建設の際には、方広寺鐘楼(大坂の陣の理由にされた鐘が掛かる)が撤去された。

しかし、恭明宮は廃止の方針となり、1873年(明治6年)3月14日(あるいは17日)、位牌・念持仏は泉涌寺に遷座した。3月3日付の岩倉具視による廃止の上申書が残されている。 当初は舎利殿に奉安されたが、のち位牌などは霊明殿へ、念持仏などは海会堂に奉安された。

廃止後の恭明宮は、付属建物の一部が京都盲唖院に移築された。現在も京都府立盲学校に恭明宮の瓦が残されているという。

参考文献

  • 阪本健一1968年(昭和43年)「皇室に於ける神仏分離」『明治維新神道百年史』第4巻
  • 1883年(明治16年)5月2日『開花新聞』44
  • 「恭明宮関係史料」『岩倉具視関係文書』[1]
  • 「恭明宮関係書類 中御門家文書」『古典籍総合データベース』[2]
  • 「京都盲唖院における空間構成と教育プログラムに関する研究」[3]
  • 京都府立盲学校ウェブサイト[4]
  • 京都市埋蔵文化財研究所「明治時代の恭明宮」[5]
  • 京都市埋蔵文化財研究所「発掘調査で見つかった恭明宮」[6]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%81%AD%E6%98%8E%E5%AE%AE」より作成

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