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本教教会
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年5月17日 (金)
本教教会は平田家が主宰した教派神道の教会。平田神社に付属する体裁を取ろうとしていたという。教団というよりは、気吹舎の学術活動の復興を目指していたという。
歴史
- 1874年(明治7年)2月28日:平田胤雄、家督相続。
- 1875年(明治8年):東京の平田家邸に平田篤胤を祀る邸内祠が祀られる。のちの平田神社。
- 1878年(明治11年)5月8日:平田篤胤の霊社が平田神社として認可される。
- 1878年(明治11年)7月3日:教会大意に即して本教教会設立を申請。
- 1878年(明治11年)8月6日:本教教会、認可。「本教教会規約」許諾。
- 1880年(明治13年)10月25日:平田鉄胤死去。
- 1881年(明治14年)2月23日:勅裁により祭神論争決着。
- 1881年(明治14年)6月:印行社を設立。
- 1882年(明治15年)1月24日:神官教導職分離。
- 1882年(明治15年)2月22日:本教教会と惟神教会(不詳)の合併が告知される。ただし実現しなかったらしい。その後、古川豊彭が代表となっている。
- 1886年(明治19年):平田胤雄死去。
資料
- 相澤みのり2022「平田国学の明治―平田胤雄と本教教会をめぐって」[1]