ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

能登・松岡寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年7月7日 (日)

移動: 案内, 検索
能登松岡寺-01.jpg

松岡寺(しょうこうじ)は、石川県珠洲市松波にある浄土真宗寺院。加賀松岡寺を移転再興。浄土真宗本願寺派松波松岡寺。山号は波佐谷山。

目次

歴史

  • 1531年:加賀波佐谷にあったが享禄の錯乱で、本山軍勢と対決し、敗北。戦死した実慶の子の顕慶が能登国松波に逃れて高福寺に入ったのが起源。最初の場所は御坊町(能登町松波御坊町)。その前の一時、桐畑(能登町桐畑)に滞在し、「坊の寺」という地がその跡地と伝わる。
  • 1602年2月:<東本願寺分立>
  • 1602年11月:本願寺准如から木仏本尊を下付される。
  • 慶栄時代:松岡寺と改称。この頃、東本願寺末から西本願寺末に転じる?
  • 1814年:水害を避けるために現在地に移転
  • 1824年:本堂再建
  • 嘉永2年:庫裏造営
  • 1869年:奈良興福寺養賢院から聖徳太子像を奉遷。
  • 1880年11月22日:本堂焼失
  • 1892年4月:本堂再建
  • 2024年1月1日:能登半島地震で被災

組織

歴代住職

  • 真宗年表より。加賀松岡寺時代を含む。
  • 松岡寺系譜[1]
  • 内浦町史[2]
  • 波佐谷町史[3]
  • 1:蓮綱()<>:兼祐。享禄4年10月18日死去。82歳。
  • 2:蓮慶()<>:兼玄。享禄4年11月18日死去。49歳。
  • 3:実慶()<>:兼相。享禄4年11月18日死去。29歳。
  • 4:顕慶()<>:兼利。元亀2年9月2日死去。50歳。
  • 5:空観()<>:兼秀。慶長8年6月29日死去。56歳。
  • 6:慶栄()<>:兼宗。寛永8年6月30日死去。67歳。
  • 7:慶淳()<>:兼佐。慶長12年2月10日死去。42歳。
  • 8:慶念()<>:兼康。元和3年10月3日死去。30歳。
  • 9:良慶()<>:兼広。貞享1年1月10日死去。80歳。
  • 10:良淳()<>:兼超。宝永5年4月9日死去。59歳。
  • 11:寂念()<>:兼宣。享保18年10月27日死去。61歳。
  • 12:住空()<>:兼門。天明8年3月26日死去。72歳。
  • 13:法幢()<>:闡建。寛政9年7月4日死去。52歳。
  • 14:法〓()<>:闡忠。文政6年6月3日死去。52歳。(〓は草冠+勲)
  • 15:本雄()<>:摂郁。天保8年6月27日死去。36歳。
  • 16:広円()<>:波佐谷沢融。再任
  • 17:広教()<>:波佐谷沢随。明治29年12月31日死去。42歳。
  • 18:広円()<>:波佐谷沢融。明治35年10月16日死去。86歳。
  • 19:波佐谷兼尊()<>:兼尊。昭和11年3月5日死去。53歳。
  • 20:波佐谷顕充()<>:昭和33年7月24日死去。48歳。
  • 21:波佐谷照充()<>:顕照?
  • 22:波佐谷真充

画像

資料

  • 1969『波佐谷町史』「松岡寺」[4]
  • 「能登国松岡寺へ御下附」[5]
  • 1981『内浦町史』「松岡寺」[6]
  • 1984『内浦町史』「触頭松岡寺」[7]
  • 波佐谷松岡寺縁起
  • 加賀松岡寺由緒:1830年[8]、1838年[9]
  • 石田文一2002「松波松岡寺文書について」『 石川県立歴史博物館紀要』14
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%83%BD%E7%99%BB%E3%83%BB%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール