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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

興正寺大阪別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年8月19日 (日)

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興正寺大阪別院(こうしょうじ・おおさか・べついん)は、大阪府高槻市奈佐原にある浄土真宗寺院。本尊は阿弥陀如来興正寺別院御坊。元は大阪天満にあった。天満御坊天満興正寺。通称は産寺(うぶでら)。真宗興正派。(参考:同名寺院天満御坊

歴史

1532年(天文1年)、本願寺に所属する興正寺は日蓮宗山科本願寺焼き討ちで焼失。翌年、本寺の本願寺が大坂石山に移ると共に興正寺も大坂天満に移転。これ以前に掛所が既に設けられていたという見方もある。1546年(天文15年)、石山本願寺内に移転。1580年(天正8年)、石山本願寺が陥落し、転々とする本願寺に随従するが本堂は建てられなかった。1585年(天正13年)に天満本願寺が成立すると、興正寺も天満の旧地に移転した。大阪天満宮の東南200mにあった。1591年(天正19年)、西本願寺と共に興正寺は京都に戻ったが、旧地に御坊が残された。西本願寺は天満から京都に本堂を移築したが、興正寺は京都では新たに造営し、天満には伽藍をそのまま残した。

1724年(享保9年)の大火(妙知焼)、1777年(安永6年)の大火、1837年(天保8年)の大塩平八郎の乱で焼失。1855年(安政2年)再建。 天満郷の住民の宗旨人別帳を収める寺院であり、出産と共に参詣する必要があったから産寺とも呼ばれた。 真宗興正派の独立と共に興正寺の別院となる。1887年(明治20年)から1903年(明治36年)まで関西大学の前身である関西法律学校が学舎を置いていた。1945年(昭和20年)の空襲で焼失。1965年(昭和40年)旭区赤川に移転。さらに高槻市に移転した。旧地の北区天満・滝川公園には記念碑が建てられている。 (日本歴史地名大系ほか)

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