ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
若王子・円成寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2025年7月8日 (火)
円成寺(えんじょうじ)は、京都府京都市左京区の若王子神社内にあった修験道本山派の寺院。本山派二十七先達の一つ。(参考:同名寺院円成寺) 千勝院とも。乗々院(若王寺)の子院か。京都の地誌には記載がなく、独立した堂宇を持たなかった可能性がある。
目次 |
歴史
沿革不詳。『修験道聖護院史要覧』に「京都東山円成寺は若王子の寺中で、もと千勝院と称した」「円成寺は東山若王子の境内に所在し聖護院に近く、烏丸大善院とともに在京の諸先達としても貴重な存在であった」とある。 1693年(元禄6年)、千勝院から円成寺と改号した。以後、「千勝院」は後継者の号となった。 幕末には因幡堂柳坊の兼務となった。
組織
住職
『修験道聖護院史要覧』 「諸先達-京都東山円成寺」による。
- 祐快()<>:1505年(永正2年)、10度目の入峰を行っている。了蔵坊と号す。
- 1良俊()<>:1509年(永正6年)、4度目の入峰。1520年(永正17年)10月24日、解脱寺で入壇灌頂。了蔵坊と号す。
- 2舜永()<>:1561年(永禄4年)、5度目の入峰。1589年(天正17年)6月9日死去。71歳。了蔵坊、千勝坊と号す。
- 3鎮永()<>:舜永の弟子。1579年(天正7年)14歳で得度か。1580年(天正8年)初入峰。1589年(天正17年)大先達。1593年(文禄2年)富士禅定。1597年(慶長2年)葛城初入峰。1598年(慶長3年)道勝親王入峰の靡先達を務める。1601年(慶長6年)、唐院(園城寺唐院か)で道澄から伝法灌頂。1605年(慶長10年)白山禅定。1606年(慶長11年)両峰大先達。1610年(慶長15年)峰中出資。1612年(慶長17年)聖護院熊野神社遷宮の導師。1632年(寛永9年)9月12日死去。千勝坊、千勝院と号す。
- 4亮尊()<>:鎮永の弟子。1620年(元和6年)初入峰。1624年(寛永1年)唐院で若王子澄存から伝法灌頂。この時、権律師。1693年(元禄6年)、千勝院から円成寺と改号した。
- 5玄賀()<>:初名は玄信。園城寺東円坊に住す。妙喜院と号す。1624年(寛永1年)唐院で長円から伝法灌頂。1665年(寛文5年)道寛親王の靡先達を務める。1683年(天和3年)死去。86歳。
- 6玄順()<>:玄賀の弟子。永宝の子。覚性院と号す。1668年(寛文8年)日光院尊永から伝法灌頂。1669年(寛文9年)7月21日死去。
- 7実永()<>:元は廬山寺典空の弟子。1669年(寛文9年)閏10月16日、住職。雲嶺、寂静院と号す。
- 8亮永()<>:初名は弁賀か、あるいは自性房寂源。二尊院23世尊能天空の弟子。1688年(元禄1年)住職。1693年(元禄6年)円成寺と改号。1699年(元禄12年)勝仙院晃諄から伝法灌頂。1745年(延享2年)8月13日死去。80歳。妙観院と号す。
- 9亮賢()<>:1745年(延享2年)10月住職。1755年(宝暦5年)8月23日死去。69歳。妙音院と号す。
- 10亮雄()<>:1755年(宝暦5年)住職。
- 11恵雄()<>:1790年(寛政2年)継目。1809年(文化6年)12月、隠居して愛宕念仏寺に住す。1812年(文化9年)3月6日死去。
- 12亮海()<>:1809年(文化6年)12月住職。1832年(天保3年)10月15日死去。大僧都。
- 13亮応()<>:1823年(文政6年)初入峰。
- 14淳厚()<>:1840年(天保11年)初入峰。1843年(天保14年)3月29日死去。59歳。若王子に墓碑。
- 15実祐()<>:1845年(弘化2年)初入峰。
- 16照空()<>:因幡堂柳坊。1853年(嘉永6年)6月8日、無住のため兼務か。
資料
- 『修験道聖護院史要覧』 「諸先達-京都東山円成寺」
- 「千勝院伝」:『聖護院若王子記録』所収
- 『聖護院若王子記録』:京都大学蔵。目録[1]