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葛川明王院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年10月15日 (火)

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葛川明王院(かつらがわ・みょうおういん)は、滋賀県大津市葛川坊村町(近江国滋賀郡)の比叡山北麓にある天台宗寺院。本尊は千手観音不動明王毘沙門天比良山系の西麓の安曇川沿いの東側の高台にある。 無動寺とともに比叡山修験の拠点で、相応が創建した。鎮守として葛川・地主神社がある。 息障明王院ともいう。葛川寺と号す。山号は北嶺山。 (参考:同名寺院明王院

目次

歴史

  • 859年:相応が浄喜・浄満に導かれて比良山中に入り、思古淵神から土地を譲られ、修行の拠点として明王院を開いたという。葛川三の滝で感得した生身の不動明王を霊木に刻んで3体を作り、1体を無動寺に、1体を葛川明王院に、もう1体を伊崎寺に祀ったという。
  • 不詳:新猿楽記で修験道の聖地の一つと挙げられる
  • 1181年:『玉葉』に葛川参籠の記述。修行僧の葛川参籠が盛んになる。7月の蓮華会と11月の霜月会が行われた。
  • 1204年:この年のに参籠で納められた最古の碑伝が残る(全国の碑伝の中でも最古級のものとされる)。
  • 1223年:御殿尾滝山を聖地として入山禁止とする
  • 1317年:伊香立荘をめぐる争論か起こる。葛川簡略絵図が作成された。明王院本堂の裏に「地主権現」が描かれる。
  • 1334年:息障明王院の寺号が定められた。
  • 1335年:源愉が『葛川行者用心』を編纂。1254年から1272年頃までの参籠の記録。
  • 1395年:室町幕府、四至を安堵
  • 1487年6月:足利義尚が葛川明王院に参籠
  • 1502年:地主神社の現在の社殿を造営。現在地に遷座か。
  • 1584年:回峰行が復活。
  • 1662年5月1日:地震で被害。山崩れにより安曇川が堰き止められ、集落は冠水。

(『日本歴史地名大系』ほか)

境内

  • 本堂
  • 護摩堂
  • 八大金剛童子社
  • 頼玄社
  • 穂積社
  • 弁天社
  • 覚照水
  • 石塔群
  • 護法尊

画像

資料

  • 『葛川文書』[1]
  • 『明王院文書』:『滋賀県魚業史』[2]
  • 叡山文化綜合研究会1960『葛川明王院―葛川谷の歴史と環境』[3]
  • 中村直勝 1962『歴史の発見―古文書の魅力』「葛川明王院」[4]
  • 景山春樹1962「葛川明王院と地主神社」[5]
  • 景山春樹1967「葛川明王院と修験」[6]
  • 景山春樹1972「回峯修験と葛川明王院―比叡山の修験と別院参詣」[7]
  • 景山春樹1973「葛川明王院と懸仏」[8]
  • 坂田聡1985「中世在村寺院の村堂化の過程と在地住民の動向について―近江国葛川明王院を例に」 [9]
  • 時枝務1985「木製碑伝考―葛川明王院の参籠札を中心として」[10]
  • 山下立1994「新出の葛川明王院旧蔵懸仏について―総持寺金銅不動明王種子懸仏」[11]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%91%9B%E5%B7%9D%E6%98%8E%E7%8E%8B%E9%99%A2」より作成

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