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山国護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年2月19日 (月)
山国護国神社は、京都府京都市右京区京北辻町清水谷(丹波国桑田郡)にある招魂社。祭神は戊辰戦争から第二次大戦までの戦没者173柱。山国神社の近くにある。薬師堂に隣接。官修墳墓と思われる山国隊墓地がある。官祭招魂社、指定外護国神社。山国招魂社、薬師山招魂社、薬師山招魂場、辻招魂社とも。
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祭神
山国隊戦死者7柱。京都霊山護国神社の鳥取藩招魂社にも祀られているが異同は要検討。
- 高室治兵衛宗昌:1868年4月22日、下野国安塚で戦死。壬生興光寺官修墳墓。光琳寺の石碑にも名前がある。高室治平。高室次兵衛。[1]
- 田中浅太郎利政:1868年4月22日、下野国安塚で戦死。興光寺に埋葬。
- 田中伍右衛門:1868年5月15日、上野戦争で戦死。虎ノ門光岳院に埋葬。直謹?謹直?
- 新井兼吉道成:1868年4月21日、下野国安塚の戦いで行方不明となる。戦死と認定された。
- 北小路万之輔経広:1868年4月、下野国安塚で負傷し死去。忠魂史では北小路万之助。妙心寺天球院に埋葬。
- 仲西市太郎重政:上野戦争で負傷し、1868年10月4日、死去。忠魂史では中西市太郎。1891年11月5日靖国神社合祀。虎ノ門光岳院に埋葬。
- 高室重蔵則恒:1868年4月、下野国安塚で負傷し8月7日死去。虎ノ門光岳院に埋葬。1891年11月5日靖国神社合祀。
細かい経歴は要検討
歴史
山国隊の東征
1868年(明治1年)1月5日、山陰道鎮撫総督の西園寺公望の檄文に応じて山国郷から83人が維新政府の東征軍に加わった。中心となったのは 藤野斎(1831-1903)・水口市之進・鳥居専学・河原林安左衛門の4人だった。藤野斎は山国神社の神職だった。 1月11日に山国神社で出征式。新政府軍が鳥羽伏見の戦いで圧勝したため戦闘に参加することなく帰還を促されたが、東征軍への参加を懇願。岩倉具視から「山国隊」の名前を与えられた。 うち35人は鳥取藩軍に加わり、2月13日京都御所を出発。20日、大垣城下で隊員同士で血判を交わし、身分の上下がないと約した。中山道を経て江戸に向かう途中、4月22日、壬生安塚の戦いで3人が戦死。上野戦争でも犠牲者1人を出した。 また京都の別働隊でも犠牲者が出た。
招魂社の成立
山国隊は11月25日、京都に帰還。 1869年(明治2年)2月18日に山国に到着して山国神社で凱旋式を行った。 2月24日、薬師山に7人の霊を祀ったのが起源(『靖国神社誌』では1869年(明治2年)2月創建とある)。 この時建てられたとみられ、官修墳墓と思われる山国隊墓地がある。 1872年(明治5年)10月、山国隊元隊長藤野斎・辻啓太郎らが山国隊士への報奨金を拠出して社殿を造営した。 1886年(明治19年)、石碑を建立。
『もりのしげき』では「薬師山私祭招魂社」とあるが、その後、「官祭薬師山招魂社」などとある。「山国隊招魂場」「官祭山国隊招魂社」とも。
配布の由緒書では当初は「丹波山国薬師山招魂場」と称したという。